さえないバックパッカーがガンジス川船上ライブをするまでの軌跡 1

※この文章は、俺(大輔)が12年続けたrainman(レインマン)というバンドの解散を発表してから、解散ライブをするまでの約3ヶ月の間に、ブログ掲載していった旅行記をまとめたものです。

 

 

rainmanになるちょっと前の話。1


解散を発表してから、解散ライブまでのこの期間。
実になんともいえないモチベーションの期間である。

そうそう人生の中で「この期間のこの感じ」を味わえることはないのでは…、と思ったら、急に「あの日々の話」を記しておこうと思いたった。

まだ一度もしっかり文字にしてなかったあの日々の話。

たぶん、今記すのが一番いいタイミングだと思ったわけです。

この話は、rainmanになるちょっと前の話。
お暇な方は付き合ってください。


20世紀最後の年、2000年の初夏、俺は「最後の旅」と心に決めて、東京の部屋を引き払い旅に出た。
前日に、25歳になったばかりだった。

20代前半は魔力にとりつかれたように、アジアを中心にバックパックを担いで各国を飛び回った。
アジアの行きたい町や遺跡に出向き、満足して帰国してくるものの、またすぐに行きたい場所ができて、また出国。そんなことを何度も繰り返した。
10代にやっていたパンクバンドはメンバー全員で東京に出てきたものの、見事に挫折し空中分解。絵に描いたように「東京」という街に押しつぶされて散っていった。
音楽という夢を諦めた20代前半の俺には、「旅そのもの」が生きがいだった。

しかしその旅も、繰り返し続けるうちに「こんな生活を送っていてもキリがないな」と思いだしていた。
旅の中毒性、出国帰国の抜けられないループに陥っていた。

そして25歳という節目を機会に、「次の旅で最後にしよう」と決めた。

最後はなるべく行きたい国を全部回ろう。飛行機は使わずに、陸路と海路で、日本からすこしずつ西へ進もう。お金の続く限り長い間旅をしよう。そして、出来れば、「旅以外の何か」を掴んで帰ってこよう。そんなようなことを思いながら…。

「飛行機を使わないルール」を自分で作ってしまったので、まず島国日本を脱出するのには海路を使わねばならなかった。
調べたら下関から韓国の釜山(プサン)に出ている船が片道8500円と安かった。俺はまず、本州を西に進み山口県下関港を目指した。
途中、京都や岡山などに寄って友人の世話になった。旅を繰り返しているうちに旅先で仲良くなった友達が全国に散らばっていた。

船での出国は思った以上にスムーズだった。飛行機と比べて身体チェックや出国手続きも少ない時間で済んだ。
船の中は、大広間に畳が敷かれていて、移動の間はそこで雑魚寝しながら過ごす。日本人はほとんどいなくて、だいたい中国人か韓国人の、日本に出稼ぎに来たような感じの人たちが乗っていた。

船の中で、片言の日本語で韓国人のおじさんから声をかけられた「釜山になんの用があるんだい?大きな荷物だな。」
俺はなぜかとっさに「これから世界一周するんだ」なんて答えていた。つい言ってしまった、という感じ。おじさんは真顔でなにかに納得したように何度も頷いてた。

夕方船に乗り込み、畳の上で寝て、朝起きたらもうそこは釜山港だった。

こうして俺の「最後の旅」が幕を開けたわけだ。


その後バスで、俺は釜山からソウル、それからインチョンというソウルの北西にある港町までゆっくり移動した。

朝鮮半島からユーラシア大陸に陸路で入るには北朝鮮を越えなければいけない。さすがにそれは色々と手続きが面倒だったので、再び船に乗って、中国のチンタオという港町まで行くことにした。
このときの船の移動は、下関から釜山までの船移動よりもさらに日本人がいなく、たぶん見た感じ俺一人だったと思う。
このときは畳で雑魚寝ではなく、二段ベッドが2つ入った4人用の小さな共同部屋で、その一つの二段ベッドの上側が俺に割り当てられたスペースだった。部屋の中の俺以外の3人は仲間らしく、朝方まで元気に喋っていて俺の眠りは浅かった。

青島と書いてチンタオと読む。
青島ビールで有名な町だってことは知ってたけど、逆に言えばそれくらいしかその町のことは知らなかった。

中国での生活は思った以上に大変だった。英語がまったく通じなく、中国語も勿論話せないので、会話はすべて筆談だった。
漢字のわかる国に生まれてよかったとこれほど思ったときはない。麻婆豆腐や青椒肉絲、回鍋肉。メニューに書かれた漢字は大体わかった。食べたいものが注文できるのが唯一の救いだった。

チンタオから上海、その後広州と海沿いを列車で南下していった。
上海で少し日本人の旅行者と話したが、それ以外はほとんど一人きりで孤独な日々が続いた。

一人旅は意外と「暇」なのである。何もしなければ、何もしないことに誰も文句を言う人がいないので、永遠に何もしないでいられる。
腹が減ったりすると、「飯を喰う!」という行為が出来るので「やることが見つかった!」と、嬉しくなったりするほどなのだ。

広州から少し南に下ったら、すぐ下にベトナムがあった。俺は、ベトナムビザを取得してそのままベトナムに入ることを決めた。
中国という国に少し疲れていたのかもしれない。少し西に進めば旅行者が多いと言われる雲南省があるのだが、そこまで辿り着く元気がなかった。

ベトナムに列車で入り、首都ハノイに滞在した。
ハノイで泊まったゲストハウスにはたくさんの日本人がいた。5人分ほどのベッドが横一列にならんでいるドミトリーの一室で俺は生活をした。

ハノイに着いても、中国から引きずっていた、何か「旅にノリきれていない」と感じる中途半端な状態が続いた。
新鮮な顔で旅をしているバックパッカーを横目に見ながら、自分の、この空虚感はいったい何なのだろう?と感じる日々を過ごしていた。
俺はいったい旅というものに何を期待しているのだろうかと…。

ハノイから少し北にあるサパという村に移動した。少数民族が生活している山の中にある小さな村。
そこで、ライスの上にパクチーを乗せ醤油をたらしただけのようなご飯を毎日食っているうちに、少しずつ気持ちが落ち着いてきた。
相変わらず一人ぼっちだったけど、山岳民族の子供たちの笑顔を毎日見るのが楽しみになっていった。

再び、ベトナムを南下するためにハノイに戻った。
サパに行く前に滞在していたゲストハウスに戻ると、ドミトリーはいっぱいで、ダブルルームを二人でシェアする形でしか部屋は取れないと言われた。仕方なくその部屋に決めると、もう先に一人目の客がその部屋にはいた。背の高いひょろっとした体格の、俺より数歳年上に見える日本人男性だった。

彼は咳き込んでいて、見るからに体を壊していた。
俺を見ると、咳き込みながら「すみません。風邪をひいてまして…」と言った。
俺は、軽く会釈をして部屋を出た。

ハノイの町を散歩している途中に、一つのリサイクルショップに出会った。
リサイクルショップというよりは「なんでも屋」みたいな、小さな雑貨屋。
そこに、なにか魔がさしたようにふらっと入ってしまった。
店の奥にギターがあった。ギターといっても、ウクレレより少し大きいくらいの大きさで、「ギターみたいなもの」と言ったほうが適切かも。
値段は「US9$」と書いてある。900円くらいだ。

魔のさし方の連鎖なのか、なぜか俺はそのギターを指差し、「これください」と言っていた。

裸のままのその「ギターみたいなもの」を片手で持ちながら、歩いてゲストハウスに戻ると、同居部屋の風邪っぴきの兄さんが、一言言った。

「おー、ギターですか。なんて名前なんですか?」
「いや、さっき買ったばかりで名前とかないけど…」(なんだその質問!?)
「名前付けましょうよ!シェガーレイとかどうすか?好きなボクシング選手なんすよ!」
俺は、話しているうちになんとなくその陽気さに気分が和んで、「じゃあこのギターはシェガーレイ・ハノイって名前にしますよ!」と答えていた。

彼は、その日の夕方、ベトナムの中央部にあるフエという町にバスで移動していった。

俺はその日から、そのギターみたいなものを「暇つぶし」の道具として、たびたび暇なときに弾くようになる。

ドミトリーに移ったあとは、隣のベッドの旅人に「ギター弾けるんすねー」なんて言われて「いやー、昔バンドやってたことあってー」なんて答えたりしていた。

 

そのうち俺もハノイを離れてベトナム国土を南下する日が訪れた。
ベトナムを南下して、そのままカンボジアに入ろうとしていたのだ。
そして途中立寄ったフエという町で、俺は再びハノイで同室だった時の風邪っぴきだった同居人と再会することになる。

彼の名は「Nさん」といった。
Nさんは俺に「ボクはCDプレイヤーもカセットウォークマンも持っていません。でもこの旅で口ずさみたい私だけの音楽があればいいなと思っています。もしよかったら、わたしに1曲、あなたが作った曲をくれませんか?その曲を歌いながらわたしは旅をします。」と言った。

びっくりしたけど、俺も久々にギターを弾いて楽しかったので、「では一日待ってください」といって、次の日までに久々にオリジナル曲を1曲作って、彼にプレゼントした。
その曲は「あの店今頃」という曲名にした。のちにrainmanの1stアルバムに収録されることになるが、勿論この時は知る由も無い。
彼は「ありがとうございます。この曲を歌って旅を続けます」と言った。

その時から俺の旅が、大きなうねりを起こして、なにかに導かれるように動き出した。ような気がした。

そして、旅での出来事を日記代わりのように「曲」という形に残して、旅を続けてくようになる。

 

 

 


rainmanになるちょっと前の話。2


ギターという新しい「暇つぶし道具」を手にした俺は、ベトナムを少しずつ南下していった。
ハノイからフエ。フエからホイアン。ホイアンからニャチャン。ニャチャンからホーチミンシティ。
ベトナムは日本の本州のように縦に長細い国。
俺のようにハノイからホーチミンシティーに南下するか、その逆に北上していくか、バックパッカーの旅コースは大体その2コースだった。
移動中に滞在する主要な町も大体決まっているので、同じペースで同じ方向に進んでいる旅行者同士だと「やあ、ここでもまた会いましたね」と、何度も再会し、少しずつ友情が芽生えたりする。
フエの村で曲をプレゼントしたNさんとも、その後何度かベトナムで再会した。

Nさんは真面目なまっすぐな人で、教員免許も持っているようだった。
そのくせ人当たりが柔らかく言葉遣いが丁寧で、年下の俺にも「大輔さん」と、さん付けで呼ぶような人だ。
彼もまた日本から船で出国し(彼の場合は神戸→上海だった)、世界を回ろうとしている途中だった。ちょうど出国も俺と近い時期だ。
今までの俺の周りには居ないタイプの男だったが、なぜか俺らはとても気が合い、徐々に本音で話せるような友情が再会を繰り返すうちに生まれていった。

ある日どこかの町に滞在中、Nさんに「幸せってなんですかねー?」という質問をされ、二人で自分の思う幸せを一つずつあげてみたりした。その箇条書きの「幸せ」を歌詞にして「ハッピーソング〜晴耕雨読〜」という曲を作った。
俺はNさんという人物にきっかけをもらい、忘れかけていた「曲を作る楽しさ」というものを少しずつ思い出していた。

Nさんと同じように、もう一人「S君」という日本人男性ともベトナム南下の旅で仲良くなった。彼と俺は同年代というのもありすぐに打ち解けて話すようになった。
S君はボブマーレイの音源をたくさん持っていて、けっこういいスピーカーを携帯していた。
音楽を聴くバックパッカーにとって、「コンパクトで音がいいスピーカーを持っている!」というのは、とても自慢できることで、それだけで話題の中心になれるほどの威力があるのだ。
S君とはよく音楽を聴いてすごした。時には俺がギターを弾き彼が歌ったりした。

ベトナムでの最後の町ホーチミンシティーに到着したときは、俺もこの「最後の旅」に出て2ヶ月が過ぎようとしていた。

ここでカンボジアのビザを取り、そのままカンボジアを横断してタイランドに行こうと思っていた。タイランドは過去に何度も訪れていて、勝手がわかる。とりあえずバンコクまで行って、その後の事はその時考えよう、そう思った。

ホーチミンシティーでカンボジアビザが出来るのを待つ為しばらく滞在していると、NさんとS君も同じようにその町で滞在していた。何度目かの再会だ。
俺らは「せっかく同じ町に居るならみんなで部屋をシェアして安く借りよう!」ということになり、1週間ほどの共同生活をした。

マーケットをひやかしながらウロウロしたり、戦争証跡博物館を訪れベトナム戦争の事実に唇を噛んだり、ベトナムの発泡酒「ビアホイ」を毎晩屋台で呑み大笑いしたり…それはまぁ楽しい旅ライフを過ごした。
俺とS君は音楽ユニットを組んだりして、「拝啓ゲンノベリン(※雨々『えびとかげ』収録)」などのくだらない唄を作り、屋台で歌ったりした。お互い古い友達のような、そんな関係になっていた。
そして、それぞれが、ビザ取得とともに町を出て行き、また一人旅に戻っていく。

この頃になると、俺がこの旅の初期に感じていた「ある種の孤独感」はどこかに消えていた。
片手にはいつもハノイで買った小さなギター「シュガーレイ・ハノイ君」がいて、出会う旅行者は、ハノイ君をきっかけに声をかけてくるようになり、たくさんの出会いと別れを繰り返した。

カンボジアのプノンペンは、あまり居心地のいい町ではなかった。

銃声というものを生で聞いたのも初めてだったし、警察官の評判が悪く、「賄賂を要求されたりするから警察を見かけたら近寄らずに遠回りしろ」などと先に滞在している旅行者にアドバイスを受けたりした。
なにかあった時、いったい誰に助けを求めればいいのだろうか、そんなことを思いながら。

キリングフィールドや、トゥール・スレン(反ポルポト派収容所が今はそのまま博物館になってる)など見学に行ったけど、本当に悲惨すぎて、自分に置き換えてイメージするのは辛かった。
カンボジアの闇部分がプノンペンを支配しているように感じた。

国境を歩いて超えパスポートにスタンプを押されれば、そこにはもう違う国がある。国が変われば、その場所の空気、思想、歴史が完全に変わるように映る。それぞれに渦巻く闇があって、それは通りすがりの旅行者が簡単に理解できるものじゃなかった。

そんなプノンペンにいながらも沢山の旅行者と知り合った。
その中でも特に共同部屋の19歳の日本人青年と仲良くなった。19歳というのは、いままで俺が会ったバックパッカーの中でも一番若いんじゃないかな。名前は「T」といった。
俺は弟に接するような気持ちになり、兄貴風を吹かしてTをかわいがった。

アンコールワットのある町シェムリアップは、プノンペンと比べてとてもリラックスできる田舎町だった。
滞在した宿がとても気に入って、アンコールワット遺跡観光も行かずに毎日ゲストハウス周辺でグダグダしながら過ごした。

しかし、新しくこの町に入ってくる旅行者たちが、長く滞在している俺を見て「アンコールワットどうでした?」とよく聞いてくるので、そのたびに「いやーまだ行ってなくて…」と答えるのがなぜかとても申し訳ないような気分になった。

俺は2週間目にしてやっとアンコール遺跡群を見に行く決意をした。
しかし、そんな日に限ってここ一番の激しいスコール。
バイクタクシーの後ろに乗って移動していた俺は、アンコールワット見学どころではなく、ずぶ濡れになって宿に帰ってきた。
「ひえー」と言いながら宿の玄関に入っていくと、あのNさんが丁度チェックインしている時だった。
たまたま俺の滞在してた宿に来たわけだ。国をまたいでもまたしても再会してしまうのである。

俺らは再会を祝してささやかなパーティーを開き、アンコールビールを飲みながら乾杯を繰り返した。
次の日の朝、二日酔いの頭で「PARTY」という曲を作った。後に、この時のこの曲がrainmanのデビュー曲となる。

ベトナム、カンボジアで出会った、Nさん、S君、そしてT。
まさかこのとき、別々の町で出会ったこの3人と、約半年後に、「インドに流れるガンジス川で船上ライブをやる」とは夢にも思わなかった。

この後、旅はタイランドそしてラオスと進むことになる。さらにへんてこな出会いがこの後も続いていくのだ。

この話は、一旅行者が、ガンジス川船上ライブを主催するに至るまでの出会いと別れと光と闇の記録です。

 

 

 

 

rainmanになるちょっと前の話。3


まだ乗せるのか?ってほど、旅行者を荷台にぎゅうぎゅうに詰め込み、オンボロトラックは黒い煙を上げて炎天下の中ひたすら西に走った。

20世紀のカンボジアは、まだまだアスファルトの道路は少なく、主要都市を結ぶ国道でさえ砂埃の舞うデコボコ道だった。
デコボコなのは地雷の処理をしたからだ、と誰かが言っていた。
道に空いた穴を越えるたびに、体が宙に浮くくらいトラックの荷台が跳ねるので、乗客はケツの痛みでひーひー言っていた。

「まだ着かないのか?早くこの地獄のような移動を終えたい…。この道を通るのは人生でこの一回きりだ!もう二度とトラックで移動なんてするか!次に来たら絶対飛行機に乗ってやる!」と、俺は心の中で叫んでいた。

最初は談笑してた欧米人旅行者も、もう誰ひとり口を利いてない。
みんな歯を食いしばってケツの痛みに耐えてる。
かれこれ6時間、このジャンピングトラックは走り続けているのだ。

ケツの感覚がなくなり痛みさえも感じなくなった頃、ポイペトに着いた。カンボジアとタイの国境だ。
ふらふらとトラックを降りて、ボーダーを越え、タイ側国境の町アランヤプラテートに入る。
やっとタイランドに入った!

国が変わったということは、あっさりと体感できた。こうも違うのかっていうほどスムーズに車が走るのだ。
しかも、もう荷台じゃない、ちゃんと車内に入れて移動できてる。
エアコンまで効いてる。寒いくらいだ。
やった!俺はついにタイに入ったんだ!と、かなりテンションがあがっていた。
俺は一刻も早くバンコクに着きたくて、国境からノンストップでカオサンまで向かうバスのチケットを取った。

カオサンっていうのはバンコクの一角にある小さなストリートの名前なんだけど、その周辺には手頃な値段のゲストハウスや、欧米人向けのレストランやBAR、みやげ物屋、そしてタイ料理の屋台などが多く、バックパッカーなら一度は訪れる旅人ご用達の町で、賛否両論あるんだけど、俺は便利なので大体いつもカオサン周辺で宿を取っていた。

日が暮れて真っ暗になった頃、やっとバンコクに入った。
カオサンのネオンが窓から見えたときは思わず声を出してしまった。揺れるネオンがお伽の国のようだった。
なんでこんなにテンションがあがってるのか、自分でも不思議だった。
「よっしゃー着いたぜー、ただいま!バンコク!」俺は、はしゃぎまくって外に出た。

しかし、次の瞬間、この旅一番の大失態をしてしまったことに気付く。

浮かれて勢いよくカオサンストリートに飛び出したのはいいが、なんと、俺のかわいいチビギター「シュガーレイ・ハノイちゃん」を、バスの荷台に置き忘れてきたことに気付いたのだ。

気付いた時にはもう遅かった。バスはすでに出発して町の中に消えていた。

やってしまった。
「ただいま!バンコク!」とか言いながら浮かれていた自分が情けない。

そのあとすぐに旅行代理店に行き確認したんだけど、国境とカオサン間を移動するバス会社は100件以上あるらしくて、とても見つからないと言われた。たとえわかっても、一度手放したギターはたぶん戻ってこないと思う・・・と言われた。うん。確かにそう思う。

タイに着いた喜びはあっさり消えて、俺はギターを無くしてしまったショックと長い移動の疲れでフラフラ。ケツもヒリヒリ。
近くの適当なゲストハウスにチェックインして、酒も飲まずに寝てしまった。

しかし、俺は今までの旅生活で身に付けたのか、それとも持ち前の性格なのか、次の日の朝にはケロッと元気になっていた。

「きっと、もう少し良いギターをバンコクで買いなさい!というお告げなんだな」と、思うことにした。切り替えだけは早いのである。

正直、シュガーレイハノイちゃんは、小さすぎた。いや、最初は小さくても何でもよかった、ただ音が出て暇つぶしになれば…。しかし、今のように毎日曲を作ったりするようになると、さすがにもう少しまともに音がでるギターがいいな…と思っていたのも事実なのだ。
シェガーレイハノイちゃん、小さすぎてチューニングも合わないし、フレットも狭くて押さえるの大変だし、「かわいいけど手のかかる奴」だったのだ。

そう思ったら、俺は早速飛び起きて楽器屋に足を運んでいた。カオサンの近くに楽器屋街があったのを知っていたのだ。

そして俺は、この旅で二代目となるギターを買った。今度は25ドルした。
普通のギターよりは小さいけれど、シュガーレイ・ハノイちゃんよりは断然弾きやすくて大きな音が出るやつだ。

ハノイちゃん、いままでありがとう。きっと誰かに拾われて、かわいがられているでしょう。

よし、二代目のこのギターは「ガリレオ・ハノイJr」という名前にしよう。(俺はすっかりNさんに影響されて、モノに名前を付ける癖がついていた)

二代目ギターを持って、再び旅が始まった。
タイを北上してそのままラオスに入り、再び中国を超え、チベットを目指そうと思った。
タイを南下してマレー半島を下る旅は、過去にもやっていたし、チベットはどうしても行きたい場所だったので、あまり寒くなる前にタイを超え、先を急ごうと思ったのだ。

バンコクから一気にチェンマイまで北上し、そのあとチェンライ、チェンセーンとゴールデントライアングルと呼ばれる地帯を回った。

その間、「夢を見るには」や「手紙の唄」という曲を作った。
新ギター・ガリレオくん大活躍だった。

そしてチェンコンというラオス国境と繋がる町へ辿り着き、メコン川を渡し舟で渡り、遂にラオスに入国する。川が国境なのだ。

このあとラオスという国を、俺は一気に気に入ってしまう。
そして、俺の旅の目的が劇的に変わる出来事が起きるのだ。

何かに導かれるように、俺の旅は進んでいく。

 


rainmanになるちょっと前の話。4


メコン川を大きなスローボートに乗ってゆっくり1泊2日かけて下っていくと、ルアンパバンという町に着いた。
この町は、町全体が世界遺産に登録されていて、とても雰囲気のいい町だった。
オレンジ色の鮮やかな服をまとった僧侶達が、朝靄の中を行列をなして歩いているのを見ると心が晴れていくような透明な気持ちになった。
俺はこの町から、ラオス中国国境までバスで北上して急いで中国を抜けようと考えていた。

しかしインターネットカフェに寄ったら、ある一通のメールが届いていた。

旅人のインターネット利用は1995年ごろから少しずつ普及していって、2000年のこの頃は誰でも一人1つフリーアドレスを持って旅するような状況になっていた。
この頃にはアジアの町のほとんどに必ずと言っていいほどインターネットカフェがあり、通信速度は決して速くはないけど、メールのやり取りをするのには十分だった。
インターネットが普及する前の旅は、郵便局留めで手紙をもらって取りにいくか、高い国際電話くらいしか、流れ者の放浪者と連絡をとる方法はなかった。
郵便局で手紙を受け取る瞬間の感動なんかを体感すると、その頃も情緒があっていいなとは思うけど、やはりリアルタイムで情報交換できるEメールは旅人にとって相当心強かった。

メールの送り主は、ベトナムで出会い仲良くなったS君だった。
彼も今ラオスにいるという。
彼が今滞在してるのはヴァンビエンという村で、そこが「めちゃくちゃ最高だからちょっと遊びに来い!」という言うのである。
ヴァンビエンはルアンパバンから半日ほどバスで南下したところにあるラオス中央部の村だった。
急いで北上しようとしてる俺は少し迷った。一度南下すると遠回りになるからだ。
S君のメールは最後にこう〆てあった
「ヴァンビエンを見なきゃラオスは語れんよ」

俺は、「よし。そんなに言うなら、ちょっと遠足にでもいきますか!」と思い、「わかった、じゃあ明日のバスを予約して向かうよ」と返事をした。

どうせ一人旅なんていうものは、急いだところで思い通りに事が進まないということを今までの経験上わかっていたし、S君とも再会したかった。

S君はバンビエンで最高のおもてなしをしてくれた。

バスから降りると、すでに発着所で待っていてくれて、「おー、大ちゃん良く来たね!部屋は取ってあるから!」とゲストハウスまで案内してくれた。

20世紀のヴァンビエンは、昔の、少しずつ旅行者が集まりだした頃のカオサンに似ていた。
これからどんどん変わっていくんだろうな…って感じる町の雰囲気、静かに動き出そうとする活気が、その田舎町にはあった。
ヨーロッパやイスラエルのヒッピーが多く、みんな自由に楽しんでいた。

俺はS君と毎日いろんなところに散歩に行ったりして、のんびり過ごした。確かに、ヴァンビエンを見なきゃラオスは語れんかもな。と思っていた。
そんな日々を「ヴァンビエン村(※雨々「えびとかげ」収録)」という曲にして、二人で唄っていると、ふとあることが頭をよぎった。

「ネパールでライブがしたいなー」

ぞくっと鳥肌がたった。

俺はすぐに、まくし立てるようにS君に提案した。
「今、ふと思ったんだけど、俺がいままで旅先で会ってきた旅人に声をかけて、ネパールに集合してもらって、そこで俺がいままで作った唄なんかを歌えるようなライブが出来たら楽しいなと思うんだけど、S君どう?」

S君はあっさり答えた。「ええよー」

俺は過去に何度かネパールを訪れていて、ポカラという町に仲のいいネパール人の友達がいた。
彼は「ホテルひまり」というゲストハウスのオーナーで、日本語も達者なので、ちょくちょく連絡をとっていたのだ。
俺は、そのオーナーに頼めばライブするにあたっての手助けをしてくれるのでは?と考えていた。
いきなり沸いて出たこの発想。冷静に考えるとまったく現実的ではないのだけど、なぜか漠然と、その風景が頭でイメージできた。
決して、音楽活動を再開しようと思ったわけではない。ただ、最初のギターを買ったときの「暇つぶし」の延長で、面白いことがしたかったのだ。「最後の旅」、遊びたいだけ遊んでやろうと。

俺らは、その後何をしたかというと、早速そのネパールの友人に連絡を取るためネットカフェへ走った!なんてことはまったくなく、部屋でのんびり、まずバンド名を考えた(笑)

そして「THE JETLAG BAND!!!」という名前に決めた。

JETLAGというのは「時差ぼけ」って意味。なんとなく旅人っぽいからこれにしよう。と、大して深い意味は考えずにバンド名が決まった。

そして、俺がヴァンビエンを出る日がやってきた。
バスを待ちながら、二人で並んでタバコをすった。
S君はこのあとミャンマーやバングラディッシュ、インドなどを回る予定だと言っていた。
俺は北上してチベット越えた後ネパールに下りるよ!と言った。
じゃあネパールで再会しよう!と、俺らは固い握手をして別れた。

この時の別れをテーマに「青いバス」という曲を作った。

メンバーはまだ二人しかいないけど、バンド名が決まった。それだけでなにかワクワクした。
ヴァンビエンからルアンパバンに戻るまでの、バスの窓から見える景色が、来たときよりも違って見えた。

 

 


rainmanになるちょっと前の話。5


ふとした思い付きで、「ネパールでこの旅の間に作った曲たちを披露するライブをやってみたい」という目標が出来た俺は、ネパールに辿り着くまで、少しでもバンドのメンバーが増えればいいなと思い、バンコクで買ったギターのケース(麻の布を使用した手作り)に、マジックで「楽団員募集世界一蹴旅行」と書いた。
「世界一周」だと叶わないかもしれないけど、「世界一蹴」なら嘘じゃないな、と思った。

ヴァンビエンからルアンパバンに戻り、そのまま中国国境を目指すために乗り合いバスでラオスを北上していた俺は、途中で通りかかる「ウドムサイ」という町で休憩を取ることにした。
なにもない普通の田舎町だったが、なにもないのがラオスのいいところ。
この町で一晩宿を取り、移動はまた明日にしようと思った。

俺は有名な観光名所がある町で動き回るより、名もない町で、現地の人がいつもと同じように暮らしているのを眺めながらゆっくり過ごすのが、なんとも言えなく好きだった。その点ラオスはいい。どこに行っても、これと言って何もない(笑)
東南アジアで一番好きな国は?と聞かれたら迷わず「ラオス」と答えるだろう。

ウドムサイに到着し、バス停近くの適当なゲストハウスにチェックインした後、腹が減っていたので外に飯を食いに行くことにした。
良さそうな食堂がないかと町をウロウロしていると、木でできた小さな橋に差し掛かった。
その橋を渡っていると、突然後ろから、「あの!ダイスケさんですよね?」と声をかけられた。
いきなり自分の名前を言われたので、ビクっとした。
「ラオスのウドムサイ」こんな超マイナーな場所で俺の知り合いなんているはずないだろ?!そう思いながら、ゆっくり振り返ると、一人の日本人の若者が大きなバックパックを背負って立っていた。勿論、見覚えのある顔じゃない。

彼は再び「ダイスケさん…ですよね?違います?」と言った。
俺「あ、はい…。そうですけど。。あなた…どちらさん?」(やべー、どこかで会った人だっけ…)
彼「あー!やっぱりそうだ!Nさんって知ってますよね?」
俺「え?!Nさん!?おー、よく知ってるよ!あ、君はNさんの友達!?」
彼「はい。以前、バンコクの屋台で日本人何人かと飯を食っていたら、その中の一人がとつぜん歌を歌いだして…。俺が『いい歌ですね、誰の歌ですか?』って聞いたら、その人が『ダイスケさんという人の歌です。君も東南アジアを旅していたらいつか会えるかもしれない…。ギター持って旅をしているから、もしどこかで見かけるようなことがあったら声をかけなさい。きっといい出会いになるから』って言ってくれたんです。それがNさんで…。」

それを聞いて俺は吹きだしてしまった。Nさんが俺の歌を、バンコクの屋台で、みんなの前で歌っているのを想像したからだ。
あの人、ベトナムで曲をプレゼントしたときに「この曲を歌って旅を続けます」って言ってたけど、ほんとに歌ってたんだ!(笑)

そう思ったら、この、声をかけてくれた若者に急に親近感が沸いてきて、「おーー!そうなんだ!!Nさんの友達なら俺の友達だ。よし!一緒に飯を食いに行こう!」と誘っていた。

どうやら話を聞くと、俺とその若者は同じ乗り合いバスで、ここウドムサイに着いたらしい。
移動中、俺がギターを持っているのに気付き、「この人はNさんの言っていた人かもしれない」と、ウドムサイに着いたら声をかけようとしていたのだが、到着時まごまごしているうちに俺を見失ってしまい、途方にくれていたところ、俺が目の前を通りかかった。という話だった。
どおりでまだバックパックを背負ったままなわけだ。
俺は、「じゃあ同じゲストハウスに泊まるか?」と誘って、彼を引き連れて宿に戻った。

いやしかし、Nさんが俺の歌を歌っているところに居合わせて、俺の名前を知り、そのあと本当に俺と出会ってしまうっていうのはすごい確率だ。これだから旅は面白い。

俺は、彼のことを「Cくん」と呼ぶことにした。この時まだ20歳。
今回の話はすべてイニシャルで書いているので説明が難しいのだけど、カンボジアのプノンペンで会ったT(19歳)と、C君は同じ名前だったため、俺が「区別するのに紛らわしい」という理由で、二人の名前を半分にわけて、後ろ半分を取って「C君」にしてみた。
俺の都合で、勝手にあだ名を付けられてしまったC君なのだが、割りとその通称を気に入ってくれた様子で、その後自己紹介するときなど、自ら「どうも、Cです」って言ってたな。

気付く人は気付いたと思うが、彼は後にブルースハープ奏者としてrainmanの正式メンバーになる「C→君」です。(※アルバム一枚目と二枚目は彼の演奏)
しかしまだこの時は、ブルースハープなんて触ったこともないのであった。

偶然なのか必然なのか、不思議な巡り会わせで、ウドムサイの橋の上で出会った俺とC君。
俺らが仲良くなるのにそう時間はかからなかった。
Nさんのことを話題にしながら、その日は酒をいっぱい飲んだ。

次の日、俺は「これからチベットに向かう。その後、ネパールに抜けて、ネパールでライブをするんだ。C君も一緒にライブしてみない?」と、早速メンバー募集活動を行っていた。
C君は「いやー、楽器はできないっすけど、でも、面白そうなんで同行しますよ」と言ってくれた。
「そうかい。まぁいいや!せっかくの出会いだし、一緒に中国抜けてチベット目指そうよ。」
そんなわけで俺とC君との二人旅が始まったのである。

この後、二人で中国雲南省に入り、さらに俺の旅は大きなウネリに飲み込まれていく。

 


rainmanになるちょっと前の話。6


ラオス国境の町ボーテンに着き、イミグレーションを超え、無事に中国国境の町モーハンに入った。
色んな国境を渡ってきたけど、この国境はその中でも一番と言っていいほどノンビリしていて、静かな田舎町だった。荷物チェックも無く手続きも2分ほどであっさり済んだ。

俺にとって、この旅2度目の中国だ。

船で青島(チンタオ)に入った頃のことが、えらく昔に感じていた。あの時は孤独と戦いながらゆっくり中国を南下していた。そして逃げるようにベトナムに入ったのだ。でも俺は、その後ギターを手に入れ、たくさんの出会いと別れを繰り返した。
あの頃よりもきっと、少しだけタフになってるはずだ。
「今回は負けねーぞ、中国」と心でつぶやきながら国境を越えた。

C君という同行者がいるだけで、移動が断然身軽になった。
一人旅の移動で一番面倒なのは荷物の管理だ。
一人だと、トイレに行くにも全部の荷物を持って移動しなければいけない。そしてトイレから戻ってくると誰かに今まで座っていた座席を奪われたりしてしまうのである。
二人なら「ちょっと見ててくれ」と荷物を置いていけるのだ。こういう小さなことが、とても嬉しい。

大都会、雲南省の省都・昆明を経由して、俺らは大理石で有名な町「大理」に辿り着いた。

少し前にNさんからメールがあり、雲南省を旅しているという情報が入っていた。きっと大理にも寄っているだろう。もしかしたら会えるかもしれない。

バスを降りて、C君と二人で町を歩いていると、茶屋の前で一人の日本人男性が休んでいた。
その人は天然のドレッドヘアで少しイカツイお兄さんという感じだった。そういう感じの人、俺は大好きなのである(笑)
俺はその人に話しかけた。「すみません、Nさんって方知ってますか?胴衣みたいなの着ていて髭の長い仙人みたいな人なんですけど…」
その説明がわかりやすかったのか、そのお兄さんは「あ、その人なら知ってるよ。たしかもう麗江のほうに移動したと思う」と教えてくれた。
「あ、そうなんですか!」
どうやら少しタイミングが合わなかったようだ。

お兄さんは「俺、道で他人にものを尋ねられたの初めてだよー」と笑った。その笑顔がなんとも言えなく良くて、俺はそのお兄さんと友達になろうと決めた。
しばらく話を聞くと、その兄さんはチベットのラサから真東に移動して雲南省に抜ける闇ルートをヒッチハイクで抜けてきたという。
旅人の間では最も過酷なルートだと言われているそのコースを、コンプリートしてきた猛者だったのだ。
俺はここぞとばかりに、そのお兄さんからチベットの情報を沢山入手した。
チベットは5人集めて一緒に移動するのがいいらしい。ランドクルーザーを借りての移動が多くなるらしく、運転手以外は最大5人まで乗れるため、割り勘にするとその人数が一番安くなるのだ。
俺は正規のバスルートでもある「ゴルムド→ラサ」で行こうと思ってる、と言ったら「そうだね。ヒッチハイクは大変だしリスクも多いから、バスのほうがいいよ」とアドバイスしてくれた。

俺とC君は、少し大理に滞在してみることにした。
旅行者も多いし、ちょうどいい田舎ぐあいで生活しやすそうだったからだ。
旅人の間では、大理の話はちょくちょく出ていた。中国の中では比較的外国人旅行者の多い町で、ヒッピーさんたちにも人気だった。
その昔「ダーリーズ」というヒッピーの集団もあったらしく、以前の旅では「元そのメンバー」とか言う人と会ったこともあった。

大理に着いたその日の晩、茶屋で会ったお兄さんに誘われて俺らは「BIRD BAR」という店に遊びに行った。
奥まった場所にポツンとそのバーはあった。店内は薄暗くて、とてつもなくレトロだった。地元の悪そうな中国人の若者がビリヤードしたりして遊んでいた。

「よく来るんですか?ここ」
「まぁ、夜は大体来るね。静かだから」兄さんは答えた。

俺らはそこでゆっくりと自己紹介を交え話をした。

兄さんはロンドンにしばらく住んでいたらしく英語も達者だった。それに旅で必要な知識を、良いことも悪いことも(笑)いろいろと知っていた。気がつけば俺はそのお兄さんに「BOSS」というあだ名をつけていた。
俺はBOSSにも、ネパールでライブをやりたいと思ってるって話をした。
BOSSは、「俺はこれからラオスに降りるけど、その後は決めてない。またなにかあればメールしてよ」と言った。

それから大理に滞在中は毎晩BOSSとBIRD BARで話をして過ごした。

数日後、そろそろ先に進まないと…と思い、俺らは麗江行きのバスのチケットを取った。Nさんがまだ麗江に滞在してるかもしれない。
BOSSに「今日、麗江に向かいますよ」と伝えたら、「渡したいお土産があるから、バスが出る前に俺の部屋によってよ」と言われた。
約束通り、俺は夕方出発するバスの時間の少し前にBOSS部屋に寄ったんだけど、タイミングが悪かったのかBOSSの姿は見えなかった。
別れの挨拶が出来ずに残念だったけど、しょうがないのでそのままバス停に向かった。またきっとBOSSとは会える気がした。

麗江までの移動中、山に沈む夕日をバスの窓から見ながら「BACK PACK BLUES」という曲を作った。

俺とC君は、BOSSからのアドバイス通り、5人のメンバーをそろえてからチベットに乗り込もうと話していた。
次の町、麗江でもしNさんに会えたら、チベット移動メンバーに入ってもらおう。2人とも共通の友達なので話は早いはずだ。
あと2人はどうしようか。面白いやつがいるといいね。そんな会話をしながら麗江を目指した。

2度目の中国。まずまずのスタートだ。

しかし、俺らはこの後、中国旅行の本当の厳しさを痛いほど知る羽目になる。

 

 


rainmanになるちょっと前の話。7


雲南省の麗江(リージャン)は美しい街だった。旧市街は世界遺産にも登録されているだけあって、歩くだけで心が癒された。
水と緑の多い街で、水路には趣のある石の橋がいくつもかかり、石畳の敷かれた小道の両脇には土産物屋や料理店が並んだ。俺は一発でこの街を気に入ってしまった。

C君が「○○って宿が、評判いいみたいっすよ」と言うので、「じゃあそこに行ってみよう」ということになった。
旅をしていると色んな旅人が色んな情報をくれるので、ガイドブックを見るよりはるかに確実な宿情報が手に入る。

無事にその宿を見つけ、宿の門をくぐると、日当たりのいい中庭があった。
そこに猫と遊んでいる一人の男性がいた。

Nさんだった(笑)。

再会の握手。

Nさんは、俺の隣にいたC君を見て「お!大輔さんと会えたんですね。」と言った。
C君は「へへ。会っちゃいました。」と笑った。
「Nさんが俺のプレゼントした唄を本当に歌ってくれてるおかげで、いい出会いになりましたよ。ありがとう。」と俺も笑った。

さっそくNさんに、チベットを5人組で抜けたいと提案したら、「そういうことなら同行致しましょう。」と言ってくれた。
一人旅の人たちはみんなほんとに話が早い。

これで5人のうち3人は揃った。

俺は、あと2人のうち1人は、カンボジアで会った19歳の若者「T」を誘おうと思っていた。
たしか彼もチベットに行くと言っていたから、そろそろ中国に入っているかもしれない。
俺はネットカフェに行きTにメールしてみた。Tからの返事は「もう少し麗江に着くまで時間がかかりそうですが、待っていてもらえるなら一緒に行きましょう」という答えだった。
宿に戻り、そのことをNさんとC君に相談したら「この街が気に入っているし、もうすこし滞在するつもりなので構いませんよ。その彼を待ちましょう」と言ってくれた。

残りの1人は、そのうち決まるだろう。この宿には他に日本人旅行者も多いし、ここに滞在しながらゆっくり探そう。そう思った。

この宿に滞在している旅行者は、20代から30代の若者で、一人旅だったり、女の子二人旅だったり、大学生だったり会社員だったり…様々だったが、みんな気さくでいい奴らだった。というか、旅してるやつで嫌な奴はほとんどいない。日常を離れて好きな場所に自分の足で立ってる奴にストレスなんてあるはずないのだ。
新参者の俺らともすぐに打ち解けてくれ、一緒にマージャンしにいったり(中国の牌で一度してみたかったのだ)、大人数で中華を喰いにいったりした(中華料理は大皿で出てくるので、一人で食べに行ってた時は一種類食べるのがやっとだったけど、皆でいけば色々な種類が頼めるのだ!)。

俺はC君と1つの部屋をシェアしてたんだけど、ある日部屋で酒を飲んでいるときに、俺は日本から持ってきたブルースハープ(ハーモニカ)を彼に見せた。
実は東京のある友人から「お守り代わりに…」と、旅立つ前に預かったブルースハープが、バックパックの底に眠っていたのだ。
そのブルースハープがここに来て陽の目を浴びるとは!!という思いだった。

俺は「これは10個の穴しか空いてない小さな楽器なんだけど、この10個の穴から無限に広がるメロディーが産まれるんだぜ。」と少し吹いて見せた。
俺は、そこまでブルースハープが上手く吹けるというわけじゃないけど、高校生の頃からたまに吹いていたのだ。

そして今度はC君に持ってもらい、「俺がギターを弾くから適当に吹いたり吸ったりしてごらん。どこを吹いてもキーが同じならそれなりに音楽になるんだよ」と言って、ギターを弾いた。
C君は最初戸惑っていたけど、一緒に音を出しているうちに少しずつブルースハープの面白さに気付いていったようだった。

何日か経った日の午後。
いつものように中庭でギターを弾いて歌っていると、サングラスにバンダナ、そして革ジャンに革靴、という珍しいいでたちの日本人男性がチェックインしてきた。
なかなか見ないタイプの旅行者だなぁと思いながら、俺は彼を横目で見ていた。

彼は部屋に荷物を置いた後、中庭に出てきた。
そして少し離れた椅子に座りながら、なぜかずっと黙って俺を見ている。
サングラスなので表情がわからなかったけど、睨まれてるような気もした。
「どこかで会ったっけなぁ。見覚えが無いなぁ。なんか俺…気に触るようなことしたかなぁ」と思っていると、突然その彼は立ち上がって俺の前まで歩いてきた。

俺「な、なんでしょうか…」
彼「ダイスケって君やろ?」
俺「え!?? あ、そうですが、なぜ俺の名を…」
彼「◎◎さん知ってるやろ?あの人から頼まれたんだ。これを君に渡してほしいって」といって包み袋を俺に差し出した。

◎◎っていうのはBOSSの苗字だった!
そうか、この人は大理でBOSSに会って、あの時俺が受け取り損ねた土産をわざわざ届けてくれたのだ。

俺「どうもありがとう!まさかその為にここへ?」
彼「うん。麗江中のホテル探し回ったんだよ。さっきここの宿泊客名簿に君の名前を見つけたからチェックインしたんだ。ギターを持ってるって◎◎さんが言ってたから、もしかしたら君の事かなぁと思って見てたんだ」
なるほど、どおりでじっと見られてたわけだ。
しかし、渡し損ねた土産を人に託すBOSSも律儀だが、それを町中探し回って届けてくれるこの人も律儀だなぁ。

彼の名は「K君」と言った。俺と同じ歳だった。
フィリピンのマニラにまず降り立ち、それからマレー半島北上して中国雲南省に入ったらしい。服装と同じく珍しい旅の経路である(笑)。

彼は絵と山が好きらしく、この後は絵でも描きながらヒマラヤを本格的にトレッキングするつもりだと言う。
サングラスを外すと意外とかわいい目をしていた(笑)。強面の外見とは裏腹に、話すと真面目で優しい関西人だった。
BOSSの繋いでくれた縁ということもあり、俺らはすぐに仲良くなった。
俺はK君に、チベット入りの5人メンバーをあと一人探してるんだけど…と誘った。
K君は「俺もちょうど探してたとこやねん」と言った。

よし!
5人目決定である。

そうこうしているうちに、やっと「T」が麗江入りして、この宿にやってきた!
「いやー、急がせて悪かったなT。おつかれさん!じゃあ早速、旅のメンバーを紹介します」と言って、俺はNさん・C君・K君を紹介した。

今思えば、19歳の彼にとって、新しい街に着いた途端、いきなりこんな変な日本人を何人も紹介されて「このメンバーで旅するから!」と言われ、テンション合わせるの大変だったろうな…と思う(笑)。

Tが到着して二日後、早速俺ら5人はチベット・ラサに向かうため麗江を出た。宿の仲間がバス停まで見送りに来てくれたりした。優しいなぁ。

まずはチベット自治区の入り口の町ゴルムドまでの長い旅が始まる。

この5人での移動が、THE JETLAG BAND!!!にとって大きな起点となっていくのだった。

 

rainmanになるちょっと前の話。8


麗江にて即席で結成された俺ら「チベット越え5人衆」は、列車でまず、四川省の省都、大都市「成都」を目指した。
麗江から成都まで線路の長さで約1200キロ。軽く本州の長さくらいある。
勿論新幹線なんてないので、各都市に停まりながらゆっくり進むのだ。

それこそ、時間だけはいっぱいあった。
最初はみんな各自読書や絵などを描いて過ごしていたが、それもやはり段々飽きてくる。
俺は、C君とTを誘い、客席を離れて、列車の連結部分の近くに来た。
ここなら多少大きな音を出しても迷惑はかからなそうだ。

俺はポケットから例のブルースハープを出して、麗江に居るときに作ったばかりの「BACK PACK BLUES」という曲のイントロのメロディを吹いた。
「これからの旅は長い。暇だし、よかったらこのメロディ吹けるように覚えてよ。」
多少強引なバンドメンバー勧誘だったが、C君もTも本当に暇をもてあましていたので、「どの穴吹くんですか?」と、けっこう食いついてきた(笑)。

一通り吹く場所吸う場所を教えて、「じゃあ出来るようになったら呼んで。俺、席にいるから」と言って、二人を置いて席に戻った。

歳も近いし、名前も同じだし、C君とTはお互いを良い様に意識しあっていて、俺にはとてもいいコンビに見えた。

しばらくしてC君がやってきて「一回聞いてもらえますか?」と言う。
俺は「練習場」まで向かい、演奏を聞いた。

びっくりするくらい上手かった!

「おいおい、すげーなー。よく短時間でこんな吹けるようになるねー」

いやーなかなか難しいっすよ!とC君が笑っていると、今度はTが「ちょっと俺にもやらせて!」と言ってブルースハープを持って練習場に引きこもった。

そのうちTもマスターしたらしく俺を呼びに来た。
演奏を聴いてみると、荒々しいけどしっかりした音で吹けていた。
C君はどちらかというと優しくて繊細な音色。Tは力強くて思い切りのある音。
俺は「二人ともいいねー!ツインブルースハープで一緒にバンドやろうよ!二人が一緒に音出したら結構面白い音になると思う!」と言った。
二人は「いやー、バンドとかライブとかは無理っすよー」と言いながらも、「他にもなんか曲あるんですか?」と俺に聞いてきた。
ちょっぴり音を出す楽しさを気付きはじめてるようだ。

俺は「PARTY」や「あの店今頃」、「夢を見るには」等のこの旅で作った曲を、課題曲のように二人に渡し、そして二人はそれを次々とマスターしていった。

その間も勿論、列車は延々と、ガタンゴトンと走り続けている。

一眠りして起きた頃、Tが悲しそうな顔でブルースハープを持って俺のところに来た。「どうしたの?」と聞いたら、どうやら強く吹きすぎて音の出なくなってしまった穴があるらしい。「借りたハープ壊しちゃってすんません」と言うので、「気にしないでいいよ。ブルースハープっていうのは消耗品だから。最初はみんな壊すんだよ。このハープも壊れるまで吹いてもらって本望だと思うよ」と言った。

ハープが壊れてしまったので練習は終了。
まぁしょうがないかと思っていたら、再びC君とTがやってきて、「次の街『成都』に着いたら、新しいブルースハープ買うことにしました!」と言う。
俺は嬉しくなって、「いいねー。いまんとこ中国で楽器屋見たことないけど成都なら都会だし、きっと売ってるよ!」と言った。

列車に乗ってから約20時間後、列車がやっと「成都」に到着。長い移動だった。長すぎる。。。広すぎるぜ中国。。

5人いるとさすがに宿探しも楽だった。
荷物を置いて3人が各方向に宿を探しに行き、残りの2人が荷物番。
この方法で一番いい条件の宿を、身軽に短時間で見つけられた。

成都は都会だった。ビルも高いし、デパートもでかくてキラキラしてた。デパートの受付嬢のお姉さんに笑いかけられただけでやたらテンションがあがって一緒に写真撮ったりした。

C君とTは早速デパートを走り回り楽器屋を探していた。
そしてやはりすぐに楽器屋は見つかった。
しかもブルースハープもちゃんと置いてあった。俺は「楽器屋はあるとしても、ブルースハープまで置いてるかなぁ…」と少し心配していたのだ。
ブルースハープにはキー(音階)があり、曲によって持ち替えて演奏するため、やる曲によってはいくつかハープを用意しなければいけない。
俺は主に使うキーを二人に伝え、二人は相談しながら買っていた。
このときの25歳の俺にとって、19歳20歳のTとC君が、弟のように思えてかわいくてしかたなかった。

成都では、みんなで市場に行って、冬着も買った。
東南アジアを旅していると蒸し暑い国ばかりなので、みんな防寒対策用の服を持っていなかった。

これからは中国を北上していく。どんどん寒くなるのだ。
荷物がかさばってしまうけど、セーターの一つも無ければとても寒さに耐えられない。
バカでかいマーケットで、俺らは財布と相談しながら靴下や暖かい衣類を手に入れた。

そして次の日、今度は西安という町までのチケットを買い、再び列車に乗った。
成都から西安まで1200キロ。。。
またしても長い長い移動が始まった。

C君とTも、再び、買ったばかりの新しいブルースハープで課題曲に取り組んでる様子だった。

俺は、この移動で、今度はNさんに声をかけた。
「Nさん、俺の唄を旅先々で歌っているということですが、一度俺のギターに合わせて唄ってくれませんか?」

俺はギターを取り出し、Nさんに唄ってもらった。

下手だった…。

 


rainmanになるちょっと前の話。9


西安までの、また気の遠くなるような長い移動が始まった。

C君とTは、相変わらずブルースハープに夢中。今度はそれぞれが持っているので、二人で一緒に吹きながら音の重なりを遊んでいた。
K君はマイペースに絵を描いたり地図を見たりしている。

俺はNさんと一緒に唄を歌う時間を過ごした。

決して上手くはないんだけど、Nさんの歌には心があった。
屋台などで突然アカペラで歌いだす度胸と、なぜか耳を傾けたくなる声。仙人みたいな風貌。。俺はそれらに魅かれた。
「手紙の唄」などを一番と二番で俺と歌い分けたり、サビは一緒に歌い、俺がハモったりすると、けっこういい感じになった。
Nさんはどうやら歌うのが好きだった。いい顔をして歌うのだ。
俺がハモルとすぐにそっちにつられてしまうけど、そこを二人で笑いながら修復していくのが楽しかった。
「Nさん、チベットに着いたら、なにかリズムとれるような太鼓買いませんか?それを叩きながら、俺とツインボーカルしましょう」と言うと、
「いやー、難しいけど楽しいわー、歌うの」と笑った。

列車が移動するにつれ、俺が作ったほとんどの曲を一緒に唄えるようになっていた。
何度も言うが、とにかく時間だけはたっぷりあるのだ。

俺とNさんは、C君とTコンビのところにいって、今度は一曲通して、ブルースハープを吹く箇所、Nさんと俺が唄う部分の確認、サビと間奏の長さ、などを合わせて演奏してみた。
かっこつけて言うと、いわゆる曲のアレンジである。
全員素人なので、ぜんぜんへたくそだったが、とにかく自分たちで音を出して唄うのが楽しくてしょうがなかった。

そして列車は約丸一日かけて西安に到着した。
移動中の楽しみを見つけたので暇は感じずにすんでいたけど、やはり長時間の移動で体はクタクタだった。宿で泥のように眠る。

西安でも一泊だけして、また列車に飛び乗り、今度は蘭州という都市を目指す。
そして蘭州でも一泊して、またすぐに列車で移動した。

どこまでいってもどこまでいっても、中国が続いた。

この頃になると俺は少しずつ、中国の裏の顔が目につき始めていた。

デパートなどはキラキラして輝かしいし、文化遺産なんかはほんとに歴史を感じて素晴らしいんだけど、一歩路地裏に入ればゴミだらけになる。

中国にはゴミをゴミ箱に捨てるっていう文化がないのだろうかと考えてしまうほど、列車でもバスでも、乗客はゴミになった紙くずをすぐ通路に捨てる。
降りる頃には通路はゴミでいっぱいになっているのだ。それに唾などもすぐに「ぺっ」とそこらじゅうに吐き捨てる。
一言でいうと中国は「汚い」のである。

あと、サービスという概念があまりないようで、宿のスタッフや駅の切符売りは極力働くことを避ける。列車の予約のため窓口に延々と並んで、次で俺の番という時でも、12時にお昼休憩だとすればきっちり窓口を閉めてしまうのだ。俺の後ろには誰もならんでないのに。。。

あとこれは文化の違いでしょうがないのかもしれないけど、公共のトイレだと、個室がない場合が多い。一応性別は別れているけど、「大」をするときも丸見えなのだ。一本の水路があって、そこをみんな同じ方向にまたぎ、しゃがんで用を足す。
最初はかなり戸惑ったが、慣れとは凄いもので、自分のウ○コを見られることに抵抗はなくなっていた。しかし他人のを見てしまうのだけはいつまでも慣れなかった。。。そのための攻略方法を見つけた。同じ方向にしゃがむ水路の一番先頭で用を足すことである。前は壁しか見えないからだ。

そんな中国を進み、俺ら五人はついに、チベット自治区入り口の町、ゴルムドまでたどり着いた。

今はゴルムドからラサまで鉄道が走っているけど、2000年のこの頃は、まだその鉄道を造っている時で、旅行者の移動手段はバスのみだった。
ここからバスで約30時間ゆられ、標高5000メートルを超えるときもあるといわれるヒマラヤの山道を超えれば、ついに憧れの地「ラサ」がある。

神の住むという山に囲まれた街。どんな場所なんだろう。俺の心は高鳴っていた。

 

 


rainmanになるちょっと前の話。10


チベット自治区入り口の町ゴルムドに着いた、我々「チベット越え5人衆」。
長い長い中国大陸の移動ですでに疲労困憊だった。
俺らは、政府で定められている外国人宿泊OKのホテルにチェックインした。

K君の提案で、この町でしばらく高度順化しようということになる。
ここからラサまでの道は険しく標高も相当あがる。最大で5200Mに登るらしい。そして辿り着くラサの街は3700M。富士山の頂上と同じくらいだ。
急にそういう環境に自分をおくと高山病になりやすいという。だから、やや標高の高いこのゴルムドで体を慣らすために3日くらい滞在しようというのだ。
K君はガイドを勤めるくらいの「山」のプロフェッショナルである。みんなK君のいうことを黙って聞いた。

ゴルムドからラサまでのバスの料金には、現地人価格と外国人価格がある。当時は、外国人価格が現地の人の価格より10倍近く高かった。

貧乏旅行者がこれに黙って納得するはずがない。

そこで中国人に変装して、現地の価格で行ってしまおう、という悪知恵が働く。
そうなってくると、何でも商売にする中国人が、「変装屋」という商売を始めるようになるのだ。

変装屋っていうのは、中国人の服や靴を用意すると共に、チケットの手配や移動の際の手助けなんかも受け持つ「闇バス移動の何でも屋」なのだ。
変装屋の噂は、東南アジアを旅しているときからよく聞いた。
町を歩いていると、突然変装屋さんから声をかけられて商談が始まるというのだ。

俺ら5人がその話に食いつかないはずがない。

高度順化でしばらく滞在するし、その間に手分けをして町を練り歩き、装屋と接触をもとう!という話になった。

その時、Tが、すごい発言をした。

「俺、変装屋の携帯番号しってますよ!確か、ワンさんって人です」

みんなびっくり!
なんで知ってんだよ、そんなこと!

「チベット帰りの旅人から聞いたんですよ。ほらこれ。」
と、見せたものが、携帯番号らしい数字が書かれた紙切れだった。
みんな大興奮!
すげーぞ19歳!

次の日早速電話をかけてみた。

そこで大変なことに気付く。

相手の言葉が中国語なのだ!

お手上げである。ワンさんかどうかもわからなかった。

しかし、それで諦めてしまうほど俺らはお行儀よくなかった。こうなったら当初の予定通り、町練り歩き作戦だ!となった。

俺は駅に行ってみる、俺は市場に…と、バランスよく別れ、定期的にホテルに戻ってきて報告をする。そんなことを日が暮れるまで繰り返した。

次の日も次の日もひたすら町を歩いた。しかし一向に変装屋らしき人物からの接触はなかった。

俺は早くラサに行きたかった。

ついに我慢出来ずにみんなに提案した。
「明日一日歩いて変装屋と会えなかったら、次の日正規の外国人料金でバスのチケット予約しない?」

みんなもほとほと疲れていたようで、そうしようか、と言うことになった。

次の日、1日中歩き回ってみたが、やはり変装屋との接触はなかった。

よし!諦めよう!ということになり、「今日はゴルムド最後の夜だ。みんなで変わったところに飯を食いにいこう!出発を祝して乾杯だ」そう言って5人で外に出た。

Nさんが「ここにしましょう」と言って入ったのは「イスラム料理屋」だった。
たしかに中国でイスラム料理は変わっている。中国でイスラム教徒の割合なんてごくわずかなのだ。
Nさんはイスラムにはまっているのか、その時、よくイスラムの人がかぶっている白い卵の殻を半分に切ったような帽子をかぶっていた。
どこでそんなの買ったのよ…。
Nさんのセンスはかなり変わっているのだ。

料理は美味しく、酒も進んだ。
早くラサに行きたいなぁと話す俺らの顔は、もう次の町に辿り着くときの顔だった。

と、その時、一人の男性が声をかけてきた。

何を言ってるのかイマイチわからなかったが、少しだけ英語もできるようだ。

男の口から「ラサ」という言葉が聞こえた。

俺らはドキッとして顔を見合わせた。

まさかこの人変装屋?!

Nさんが彼に名前を尋ねた。


彼は言った。「アイム ワン」


続く。

 

 

 

 


rainmanになるちょっと前の話。11


「アイム ワン」と、確かにこの男は言った。

Nさんが「T、携帯番号書いてある紙持ってる?」と言った。
Tがすかさず「持ってます!」とその紙を出した。

ワンという苗字は中国にはたくさんいるし、変装屋のワンさんとは別人かもしれない。
しかし、もし彼の携帯番号がこの紙に書かれている番号と同じなら、俺らが捜し求めていたワンさんだ!

Nさんと俺で、ジェスチャーを交えながら説明して、なんとか彼の携帯番号を見せてもらった。
そしてTの持ってる紙の番号と照らし合わせてみた。

一致した!

この人、変装屋のワンさんだ!

俺らは、闇バス移動を諦めた直後に、捜し歩いていた人物、ワンさんと遭遇してしまったのだ!

さっそく「ラサに行きたいんだけど、いくらでやってくれる?」と俺が聞くと、それまで温厚に見えたワンさんの顔つきが一瞬で変わった。
そして真剣な顔をして「今、ここでその話をするのは危険だ」というような素振りを見せた。
「急いでラサに行きたいから何とかして欲しい」と小声で頼むと、「それでは今夜の11時に市場まで来い。5人で来ると目立つから2人だけで来るように。」と簡単な英語で指示してきた。
そしてそれだけ言うとワンさんは店を出て、どこかへ行ってしまった。

その時はまだ7時半ごろだったので、1度ホテルに戻ることにした。
そして一つの部屋に集まり、作戦を練った。

俺らは興奮していた。数日間探し回った男についに会えたのだ。
でも、その興奮もすぐに収まり、ほんとうに11時に市場まで行けばワンさんがいるのか?という話題になった。
しかし疑ってもしょうがない、俺らはそこに行くしか選択肢はなかった。

相談の結果、俺とNさんの2人が、待ち合わせ場所の市場に行くことになった。
そして残りの3人は、少し遠い場所で、見張りをしてもらう事にした。
ワンさんが来るという確実な保証はどこにもないし、もしかしたら危険な目にあうかも知れない。
旅では何がおこるかわからない…ということを俺らはこれまでの経験でわかっていた。

待ち合わせ時刻が近づいてきたので俺らは外に出た。まず俺とNさんが歩き、その少し時間をおいて残りの3人が俺らの後を追った。
市場はゴルムドの中心街より少し離れた所にあった。
昼間は結構な人で賑わっているのだけど、夜は怖いくらいシーン…と静まり返っていた。
しかも外灯のようなものがまったくないため、真っ暗だった。
目が慣れてくるとやっとぼんやり周りが見える感じ。

俺とNさんは息を殺して、市場の真ん中まで歩いた。そしてライターで明かりを作り、じっとワンさんを待った。

指定時間の11時を10分ほど回って、すこし不安になってきた頃、遠くで人影が見えた。
暗くて誰かわからなかったので、俺らはその人影に近づいた。
そこにいたのは、やはり先ほどの男、ワンさんだった。なぜか自転車にまたがってこっちを見ていた。

俺らの顔を確認したワンさんは、首を横にふって「ついて来い」というような素振りをして自転車で進みだした。
俺らは黙ってついていった。
市場を出るとき、K君がそっと近づいてきた。俺はワンさんに気付かれないように小声で「無事に会えた。とりあえず3人は先にホテルに戻ってて。大丈夫だから」と伝えた。K君は「了解」と言って消えていった。

市場を出て、入り組んだ細い道をワンさんはどんどん進んでいった。旅行者だけなら絶対に歩こうと思わない裏道だ。
俺らは帰り道を忘れないように注意しながら歩いた。

ワンさんはあるイスラム料理屋に入っていった。現地の人が利用するローカルな食堂だった。
ここで気付いたのだけど、どうやらワンさんは、中国では珍しいイスラム教徒なのかもしれない。
Nさんが、「イスラムの帽子」を被っていたため、ワンさんは俺らに声をかけてくれたのかも!と思った。
Nさんのヘンテコなセンスが役にたったのだ。

ワンさんの後ろに付いて俺らもその店に入ると、店内に客が何人かいて、いっせいに俺ら2人を見た。

ワンさんは「こっちだ」と言って、店の中にある階段を登っていった。俺らもその階段を登る。
なんだか変な緊張感があった。

2階には真っ赤なソファーと木で出来たテーブルが置いてあり、ワンさんの他にもう一人男がいた。
薄暗いその部屋で、俺らは2対2で向かい合うようにソファーに座った。

ワンさんは紙とペンを出してきた。そしておもむろに図と字を書き始めた。

それから1時間ほどかけて、俺らはワンさんの説明を聞くことになる。
少しの英単語と、中国語での筆談だったので理解するのに時間がかかってしまった。

まずワンさんが言うには、今の俺らが泊まっているホテルは警備が厳しいから、すぐに移れという事だった。
もう移るホテルは確保していると言われた。
そして日にちが少し先になるという事を言われた。
今回の作戦は公式バスに乗ってラサを目指すのだけど、中国人として乗るから値段は現地価格のままで行けるという方法だった。
ワンさんの部下5人が、バスの出発地点では俺らの席に乗っていて、最初のチェックポスト(公安が、不正な客がいないかバスの中を調べるポイント)を越えたところで、部下の5人が降りて、代わりに俺らがその席に乗り込む、という作戦らしい。
そのための準備で少し時間がかかるらしい。
その後、ワンさんに払う報酬なども聞いた。意外と安かったので驚いた。

俺は、「ひとまずホテルに戻って5人で相談し、改めてその作戦に参加するか返事をしに来ていいか?」とワンさんに聞いた。
「それは全然構わない。でもホテルはすぐに移ったほうがいい。」とワンさんは答えた。

俺とNさんは、ワンさん達と握手をして、その食堂を出た。

ずっと気を張っていたので、Nさんと二人になった途端、どっと疲れが出た。

Nさんが「なんだか映画みたいだね」と言って、俺らは笑った。

しかし俺はこのとき、いくつかこの作戦に対しての不安があった。

「確かに安くは行けるけど、けっこう大掛かりな作戦だし、ちょっとめんどくせー感じもするな…」
「早くラサに行きたいのに…準備にどれくらいかかるんだろう…」

そんなことを思った。

とにかくみんなで相談しよう。
俺とNさんは、足早に3人の待つホテルを目指した。

 

 

 


rainmanになるちょっと前の話。12


遂に、ゴルムド→ラサ間の闇バス社会を仕切る男、ワンさんに接触できた我々「チベット越え5人衆」。

Nさんと俺は、さっきワンさんから聞いた作戦を、ホテルの部屋で待っていた3人にすべて話した。

3人とも様々な反応をした。

そこで俺は、今の気持ちを率直にみんなに伝えてみた。
「正直、俺は一刻も早くラサに行きたい。なんかゴルムドの町は好きになれないんだよね。公安の見張りとか多いし…。確かにワンさんに頼めば安いけど、リスクもあるし、時間もかかりそうだ。俺は明日、正規の外国人値段でバスのチケット取って、先にラサに行こうと思う。」

俺の話を聞いてみんなは少しびっくりしたようだが、Nさんに「それもありだね」と言われた。
もともと俺らは一人旅の旅人の集まりだ。それぞれが自分で決めた道を進めばいい。誰もそれに口を出したりしない。

NさんとK君は、「せっかく運命的にワンさんに会ったので、この流れに乗ってみるよ」と言った。特にK君は頼もしいくらい張り切っていた。
C君は「俺は…なんだか気持ちがもうラサに行っちゃってるし、大輔さんと同じバスで明日ラサに向かいますよ」と言った。
Tは、しばらく「どうしようか…」と悩んでいたが、決心が付いたようで「俺は残ります。ワンさんの作戦でラサまで行く!」と言った。

こうして、ゴルムド→ラサ間は、俺とC君の「正規料金組」と、NさんとK君とTの「闇バス組」の2つに別れて移動することになった。

まぁ、料金が違うだけで通る道は一緒だし、到着する場所も一緒なので、ラサで待っていればすぐにまた5人揃うだろう。
「じゃあ先に行って待ってるよ!ゲストハウスが決まったらメールするからそこで落ち合おう!」
俺らは握手を交わして、それぞれの部屋に戻った。

次の日の朝、俺とC君は正規の値段を払い、無事に朝8時半に出発するバスのチケットを取った。
ワンさんの作戦に乗るほうが、面白い旅のエピソードが出来るかな?という思いもあったが、それ以上に俺は「ラサ」に向かいたかった。「ラサ」は、俺にとって今回の旅の「行きたい街ベスト1」だったのだ。ラサを目の前に、ゴルムドで後何日も過ごすなんて我慢できなかった。

バスには、中国人、チベット人、欧米人そして何人かの日本人が席いっぱいに詰め込まれた。
シートは狭く、背もたれもほんの少し動かせる程度だった。
これからラサまで約1200キロに及ぶヒマラヤ超えの移動が始まる。無事に辿り着くことを祈った。

最初のチェックポストに差し掛かった。
公安が何人かバスに乗り込んできて、リストを見ながら一人一人の顔を覗き込んでくる。
けっこうしっかりチェックされたので、俺は後からくる3人のことが少し心配になった。
こんな感じのチェックポストがラサに着くまで、数箇所あるのだ。ワンさんの部下が乗って通り過ぎるのはここ最初のチェックポストのみ。ばれたら強制的にゴルムドに返されてしまう。なんとかバレずに辿り着ければいいが。

しかし、次第に俺らは他人の心配などしていられないほど、自分の体調管理に頭がいっぱいになっていった。

バスはどんどん荒野を進み、いよいよヒマラヤ山脈の中に突入していった。
俺のG-SHOCK(腕時計)には標高計が付いていたのだが、その数字がどんどん上がって行く。
頭が少し重いなぁと思った頃、標高計を見たら「−−−MAX−−−」という表示が現れた。
このG-SHOCKは確か5000Mまでしか計れない。つまりバスは今標高5000M以上の場所を黒い煙を出して走っているというわけだ。

朝出発したのに、いつのまにか辺りは暗くなっていた。

そろそろ腹も減っている。
しかし、こんなところに飯を食える場所なんてあるのだろうか。

そう思っていると、明かりが灯っている建物が窓から見えた。バスはその建物の前に停まった。

運転手が叫ぶように「サーティンミニッツ!」と言った。30分。
つまり30分の休憩だ。

建物は、粗末な小屋だったが、中から湯気が出ていた。
俺はとにかく暖かいものがほしくて、その小屋に駆け込んだ。

そこは食堂だったが、メニューを見て驚いた。まともな飯はカップラーメンくらいしか置いてないのだ。
しかもすごい高い!

でも、文句を言っていられない。標高5000Mで飯にありつけるだけでも有難いと思った。
カップラーメンのお湯はぬるかった。酸素が薄いためお湯の沸点も低いのだ。

しかし、ぬるいお湯でも有難かった。
ほんと涙がでるくらい、体にスープが染み渡っていった。

その後もチェックポストを越えながら、バスは暗闇を走り続けた。

朝方、俺は体の異変に気付いていた。

なんだか熱があるようで体が重いし、頭が痛い。
となりのC君もかなりつらそうだった。

俺らはゴルムドで買っておいた携帯酸素ボンベを出して吸った。
少し楽になったような気もしたが、あまり長い効果は得られなかった。
もしかしたら、これが「高山病」というやつかもしれない、と思った。
高山病になるかどうかは、運だと言われていたが、どうやら俺らは運がなかったようだ。

やっと朝日が昇って明るくなった頃、俺らの体はすでに「虫の息」といった感じだった。
もうかれこれ24時間、この狭い空間で動けないままじっとバスに揺られているのだ。

しかし明るくなった後の、窓から見える景色は凄まじかった。
標高5000Mがどんな景色なのか、何度も思い描いてきたけど、そのどれもに当てはまることの無い景色だった。
無機質で草一本も生えてない、見たこともない荒野が広がっていた。
朦朧とした頭で、俺はその景色を目に焼き付けていた。

途中、エンジントラブルでバスを修理したり、チェックポストでしばらく待たされたり、なかなかスムーズにバスは進んでくれなかった。

すでに夕方に近くなっていた。

いったいいつになったらラサに辿り着くのだろうか。もう時計を見るのも嫌になっていた。

バスに乗って二度目の夕焼けが見え始めた頃、バスは山道を抜けたように思えた。酸素が濃くなってるのを感じるのだ。

そしてバスに乗って31時間後、静かにバスが動きを止めた。

乗客が声を上げて喜んでいる。

俺は運転手に「ラサ?」と聞いた。
運転手は「ラサだ」と言った。
俺も声にならない声をあげてしまった。
着いた。やっとラサに着いた。

俺とC君は、転がるようにバスの外に飛び出た。

そのままバックパックを枕に地面に寝転んだ。

C君「やっと着きましたね。長かったっす。」

俺「きつかった…。ここ…3700Mの標高なのに、めちゃくちゃ空気が濃く感じる…」

こうして俺は、憧れの地ラサに、やっとの思いで辿り着いた。

そしてこの後、ラサでまた、俺の旅が奇妙な運命に導かれて進んでいく。

 

続く

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