さえないバックパッカーがガンジス川船上ライブをするまでの軌跡 3

rainmanになるちょっと前の話。22


ホテルひまりの中庭で行われるライブの当日を迎えた。

ライブ開始は午後3時、勿論チャージなどはなく、子供も大人も、どの国籍でも参加自由だ。

一応、「チラシ」を作り何日か前から食堂などに置かせてもらったのだが、果たしてどのくらいの方が見に来てくれるかは不明だった。
チラシには俺が考えたTHE JETLAG BAND!!!のマスコットキャラクターの顔が描かれていた。
そのキャラクターは、バンド名をもじり「ジェットラ君」という名前をつけた。
陰陽のマークとニコちゃんマークをコラボレーションさせ、口にタバコを加えさせたオリジナルマークだ(商標登録済)。
このマークは後々rainmanのマスコットとしても使われ、「JETLAG RECORD」という俺の自主レーベルのマークにもなった。
rainmanのファンには馴染みの深い「あのマーク」である。

昼ごろになると、俺らは食堂に置いてあった使っていない黒板や、木のテーブルや椅子などを庭に運び出し、独自のステージを作りはじめた。
黒板にはチョークで「BACK PACK BLUES NIGHT VOL.0」と書いた。今日のイベント名だ。
旅の間、ずっと考えていたイベントタイトルだ。
来週のレイクサイドでのライブは「VOL.1」にするつもりだった。今日は「0」。このバンドの起源となる日にしたい、という願いをこめた。

しばらくすると一台のトラクターが大きな音をたててホテルの庭に入ってきた。
「なにごとだろう?」と見ると、トラクターは荷台車を引いていて、荷台の上にはスピーカーやアンプ、ミキサーなどが積んであった。
ラジューが俺を見て、ニコッと笑った。
そうか!ラジューがこの日のために手配してくれていたのだ。
話を聞くと、そのトラクターはカトマンズからやってきたという。いくつもの山を越えて、バスでも6時間かかる道を、重い荷物を引きずり遥々ポカラまでやってきたのだ。
本当にラジューには頭があがらない。俺らのためにここまでしてくれるなんて。

ラジューは他にも、大量のビールやソフトドリンクを注文していた。
きっと大勢の来場者を予想し、みんながドリンクを買ってくれるのを期待してのことだろう。

たくさんお客さん来てくれたらいいな…俺は祈るような気持ちだった。

トラクターと一緒にやってきた音響さんにサウンドチェックをしてもらい、いよいよライブ開始を待つのみとなった。

メンバーは、ギリギリまで部屋で練習をしていた。
今回、俺がこの旅で作った曲と、ビートルズやボブマーレーなど誰でも知っているような曲を混ぜて、12曲ほど用意していた。

開演時間が近くなり、2階の俺の部屋から庭を見下ろすと、30人ほどのお客さんが集まってくれていた。
ラジューに「そろそろやらない?」と言われ、俺らは階段を下りて中庭のステージへ向かった。

「はろー!うぃーあー ざ・じぇっとらぐばんど!ふろむ じゃぱん!」と挨拶し、ついにライブが始まった。

正直ライブの間の記憶はあまりない。無我夢中で唄った。

そして、空が暗くなり始めた頃、すべての演奏が終わった。


結果は、

散々なものだった。。

みんなガチガチに緊張していて、まったく練習どおりに演奏できなかった。

言い訳になるが、バンド内、唯一のライブ経験者は、10代にパンクバンドをやっていた俺だけで、他のみんなはまったくの初めて。そう考えると、この結果は当たり前なのかもしれない。練習と客前で演奏するライブとでは、まったく勝手が違うのだ。

しかし、やはり悔しかった。
なんとか唄で引っ張ろうと、声を張り上げてみたが、それも絵に描いたような空回りに終わった。

それでも、ありがたいことに最後まで残ってくれているお客さんも多く、アンコールも頂いたりした。

俺は「今日はどうもありがとうございました。来週、レイクサイドのクラブ・アムステルダムという店でライブをします。もっといいライブが出来るようにがんばるので、よかったら見に来てください」と挨拶した。

ステージが片付けられ、カトマンズから来た音響さんたちも帰っていった。

ラジューから「お疲れ様」と肩をたたかれた。
俺は「あんまりお客さん呼べなくてごめんね」と言った。
ラジューは「本番は来週だよ、だいちゃん」と俺に笑いかけた。
いろんな想いが込み上げてきて泣きそうになったが、ぐっとこらえた。
そうだ、まだ次がある。

その夜、俺の部屋にメンバーが集まり、打ち上げ&反省会が開かれた。

やはり、みんなも俺と同じように、イメージ通りのライブが出来なかったようで、少し暗い顔をしていた。
C君に「足引っ張っちゃってすんません」と言われた。
Nさんは「まさか、ここまで緊張するとは思いませんでしたよ」と苦笑い。
Oちゃんは「練習でやっとできたような箇所は、本番ではまったくできない。もっと余裕が出るくらい練習しないと!」と言った。

みんなの悔しい気持ちは痛いほどわかった。
しかし俺はもうこの時、気持ちは次に向かっていた。
過ぎてしまったことはしょうがない。これが俺らの実力だったというだけだ。

俺は、「いい経験になったね。今日一度ライブというものを実際に経験できたことは、すげー大きいことだと思う!やっぱり体感して初めてわかることも多いよね!今日の経験を活かして、来週までにみっちり練習しよう!」と話した。

Tが「ぜってー、次はやってやる!」と言った。
Mさんは「ほんまいい思い出になったよ、ありがとう」と頭をさげた。

S君は「旅に出て、こんな経験するとは思わなかったよ。こんな遊び他にないだろ。この際だし最後まで楽しもうやー」と笑い、みんなも笑った。

BOSSやK君やZさんも、暖かい目で見守ってくれていた。

こうして、ホテルひまりガーデンでの、THE JETLAG BAND!!!の初ライブは終わった。

俺はその夜ベッドの中で、自分の感情ついて考えていた。

今日のライブが終わったあと、俺は「悔しい」と思った。

でもそれと同時に「悔しいという感情が生まれた自分」に驚きもあったのだ。

暇つぶしの遊びで始めたバンドだった。
しかし、遊びなら自分の部屋で唄っていればそれでいいのだ。
俺らはライブと称し、人前で唄うことを選んだ。
人前で唄うなら、もっともっと本気で遊ばないとだめなんだ。
せっかく見に来てくれた人たちに、満足いく演奏を聞かせられなかったことに俺は悔しさを感じたのだ。
中途半端な気持ちじゃだめだ。暇つぶしなんて言ってらんねーぞ。
もっともっと最高の遊びにするために、本気で遊ばないと!

そんなことを考えながら、眠りに落ちていった。

 

 

rainmanになるちょっと前の話。23


緊張と空回りで全く思い通りにいかなかった、我々「THE JETLAG BAND!!!」の初ライブが終わった。

その翌日からの練習は、今までの練習とは比べ物にならないくらいみんな集中力があった。
生まれて初めて「ライブをする」ということを体感し、それぞれが自分に足りなかったことを一晩考えたのだろう。この日からの演奏は、「バンドの練習」というより「ライブを想定してのリハーサル」という感じに変わっていった。

ひまりガーデンライブのみの参加だったはずのMさんも、「レイクサイドのライブまで付き合うよ!」と言ってくれ、一緒に練習を繰り返した。旅の予定までも変えてしまうほどの魔力が、「初ライブ」にはあったのだ。

気持ちが変われば変わるもので、バンドとしての音もだんだんそれっぽくなってきた。
まだまだヘタクソな素人ではあったが、たまにグッとくる演奏をする瞬間もたくさん増えたのだ。

俺らは、飯と寝る以外の時間のほとんどを楽器の練習やコーラスのハモリ練習などにあてた。
ひとつひとつをクリアしていくことが楽しくてしょうがなかった。

一人のバックパッカーとして日本を飛び出し、いつのまにか旅で会ったものたちと、いつのまにかバンドを結成し、そしてライブをした。
そんな奇妙な巡り会わせを、メンバーそれぞれが楽しんでいるように思えた。
日本での日常生活では絶対会えないような種類の人間と、こうして短期間で家族のような信頼関係を築くことができる。旅というものの醍醐味を、バンドという「魔法の集合体」を通して、皆ひしひしと感じていた瞬間でもあった。

あっという間に時間は過ぎ、俺らは遂に、ポカラ・レイクサイド「クラブ アムステルダム」でのライブ当日を迎えた。

初ライブ当日の朝とは違い、俺にはメンバーみんながリラックスしているように見えた。
「やることはやった。とにかく楽しもう」といった感じだ。
それもこれも、ひまりガーデンでの初ライブがあったからこその感情だ。
ガーデンライブを企画してくれたひまりのオーナー・ラジューには、ただただ感謝した。

この日のためにC君は、日本からビデオカメラを郵送してもらい、俺らの行動を朝から記録していた。

あの時の映像、今もあるのだろうか?
いったい俺はどんな顔をしていたのだろうか?
今になってとてもそれを観てみたい。

きっと、旅の魔法に取り付かれた、その時しか出来ない、その時だけの顔をしているのでは?と思う。

昼過ぎにメンバー全員で「クラブ アムステルダム」まで移動し、セッティング、サウンドチェックを済ませ、夜の本番を待った。

けっこう広い店で、80人ぐらいは軽く座れそうだ。いったいどれくらいの人が来てくれるのだろうか。手書きのチラシのみの告知だ。この日のライブを知っている人がポカラの町にどれ程いるのか?想像もつかなかった。
少しでも椅子が埋まり、盛り上がればいいなと願った。

BOSSやK君は、「ライブ前やライブ中もビデオを撮るよ」と言ってくれて、C君のビデオカメラを持ち、忙しそうにライブ前のみんなの表情などを撮ってくれた。ありがたかった。
Zさんは、俺が「今日これ着て下さいよ」と渡した赤のジェットラグTシャツがとても気に入った様子だった。「伝説の幕開けやね」とか言いながらジャグリングボールで遊んでいる。

いよいよ店がオープンした。

ポツポツとお客が入ってくる。

中には、カンボジアで会った旅人や、タイや中国で会った旅人達の顔も見えた。
日本に一度帰国したのに、わざわざ再出国して来てくれた旅人もいた。
みんな国をまたいで、ここまでライブを観に来てくれたのだ。
自然と再会の握手は、掌に力が入った。本当にありがたかった。

驚いたのは、欧米旅行者の来場が多かったことだ。
レイクサイドはもともと欧米のバックパッカーが多いのだが、日本人客と同じくらい、欧米の方も来場してくれた。

お客はどんどん増えていき、演奏開始時間になる頃は立ち見も出るほどで、たぶん100人近くいたのでは、と思う。

まさかここまで動員があるとは思っていなかったので、メンバー一同驚いていた。
しかし、俺らは「平常心」を心がけた。
ここで緊張してしまっては、初ライブの失敗を繰り返してしまうことになる。
リラックスして、すべてを楽しむ方向に心を運んだ。

そして遂に、「BACK PACK BLUES NIGHT VOL.1」は幕を開ける。

ベトナム・ハノイで思いつきでギターを買い、その後、運命に導かれるように移動しながら曲を書き続けた。カンボジア、タイ、ラオス、中国、チベットと経由し、ついにネパールに入った。
旅の間に出会った仲間達がネパールに集結してくれ、遂に今、思い描いていた「旅人バンドでライブハウスデビュー!」が現実のものとなったのだ。

ひまりホテルでのライブを経験したおかげで、俺らはヘタクソなりにも落ち着きのある演奏を続けた。

会場のお客さんの顔を見る余裕もあった。
みんな楽しそうな表情をしてくれていて、手拍子なんかもいただいた。

ライブ中のMCでもメンバー紹介をしたり、曲の紹介が出来たり、このバンドができた経緯なんかも話せた。

そして約90分に渡るライブが終了した。
アンコールまで頂き、たくさんの拍手をもらえた。

俺は、なんとかやり終えたことで、ほっとした気持ちだった。
メンバーみんな、満足しているような表情で、興奮しながら乾杯していた。
Tは、練習のやりすぎで、本番途中で声が枯れてしまったらしく、ガラガラの声で「もう一回やりてー」と言っていたが、俺らは「枯れた声で良くやったほうだよ」とTを励ました。

お礼を込めて客席を回ると、欧米人女性らにサインを求められたりして、ちょっと照れくさかった。

ラジューや、クラブアムステルダムのオーナーも、よかったよ!と、握手をしてくれた。
ラジューが喜んでくれたのが本当に嬉しかった。

俺は改めてメンバー全員と、強い握手をして抱き合った。

THE JETLAG BAND!!!のポカラ2回目のライブは、こうして終わった。

そして、そのライブの終了は、同時にTHE JETLAG BAND!!!としての集団活動の終了も意味していた。
ライブのために共同生活をし練習を繰り返してきたが、もともとはそれぞれ一人のバックパッカー。
ライブが終わった以上、バンドとしての集合体は消滅することになるのだ。
この時のメンバー一人一人との握手と抱擁は、それこそ言葉では言い表せない様々な想いがあった。

いつまでもこの夜が続けばいい、そう思った。

 

 


rainmanになるちょっと前の話。24


予想以上の動員を記録し、大盛況のうちに幕を閉じた、THE JETLAG BAND!!!のポカラライブ。
その夜の打ち上げは、みんなで肩を抱き合って笑いあい、これまでの道のりを語りつくし、飲み明かした。

そして、その打ち上げの終了と共に、我々THE JETLAG BAND!!!という集団活動も終わりを告げようとしていた。

翌日、朝早くMさんがホテルひまりから旅立っていった。
俺らは全員で見送った。
Mさんは「楽しかったよ!みんなありがとう!この余韻にもう少し浸っていたいけど俺は次の町に向かうよ」と右手を差し出し、俺らは順番に握手をした。

その後も、次々とホテルを出て行くメンバーがいるんだろうな…と思っていたのだが、実際はそうでもなかった(笑)。
というより、みんなやっとバンドの練習から解放され、普通の旅行者に戻ったわけで、「さぁ、これでネパールをやっと観光できるぞ!」という感じになっていたのだ。
どうやらみんなも俺と同じく、先を急ぐ旅じゃないらしい。
しばらくは、この居心地のいいホテルひまりに滞在するつもりらしかった。

アンナプルナ山脈へのトレッキングへ行ったり、フェワ湖でボートに乗ったり、自転車を借りてダムの方までサイクリングに行ったり、レイクサイドで買い物したりと、普通の旅行者に戻り毎日を過ごしていた。

世の中は、20世紀から21時世紀へと世紀を跨ぐ年越しを目前にひかえた、歴史的な年末に差し掛かっていた。
とはいっても、ネパールは仏教&ヒンズーの国なので、日本や欧米のように「ミレニアム!」とか言って騒いでる感じでもなく、わりと静かな年末だった。

俺は、新年はインドで迎えようとは思っていたのだが、12月下旬まではネパールで過ごすつもりでいた。
ポカラは、第二の故郷と呼べるくらい好きな町なのだ。ライブも終わったし少しゆっくりとラジュー家族とでも遊びながらノンビリしたかった。

俺は毎朝、ホテルの2件先にあるジャーマンベーカリーというパン屋さんで、朝食をとっていた。
大体、朝起きてそこに行くと、ホテルひまりのメンバーが飯を食っていた。
その店の、道路に面した屋外テーブルに座り、NさんやZさんやBOSSなんかと下らない話をして、日向ぼっこしながらダラダラと飯を食い紅茶を飲むのだ。
旅では、こういう瞬間がたまらなく贅沢に感じる。いくらダラダラしても、誰も怒らないのだ(笑)

ある日、いつものようにその店で朝食を取っていたら、目の前の道を「二匹のパンクス」が通りかかった。
二人、というより「二匹」と数えるほうが似合うくらいの、パンクスらしいパンクファッションの日本人青年だったのだ。

一人は金髪のモヒカンで、鋲のついた革ジャンを着ていて、もう一人は全身黒で、鼻輪のようなピアスをつけていた。
仏陀が産まれた国ネパールを歩くには、とても不釣合いで違和感のカタマリだった(笑)。
しかし、そういうところが、俺は一発で気に入ってしまった。変なやつ大好きなのだ(笑)。

俺は早速声をかけてみた。「こんにちはー。すごい格好ですねー二人とも」
二人は、俺に気付くと、「こんにちわ。いやー、まだこの町に着いたばかりなんですわー」と関西弁で愛想よく答えてくれた。意外と礼儀正しい感じだ。
自分も10代でパンクバンドをやっていたからわかるのだが、パンクスっていうのは見た目によらず礼儀正しいのだ。

彼らは、「どこかいいホテル知ってますぅ?今泊まってるホテル、あまり気に入ってなくて…」というので、「じゃあ俺が泊ってるホテル見てみます?ドミトリーなら空いてるし…」と答えて、そのまま俺は、パン屋の会計を済まし、彼らをひまりの自分の部屋まで連れてきた。

この頃の俺の部屋は、毎日誰かしらが遊びに来てる状態だったので、けっこうオモテナシには慣れていたのだ。

彼らは俺の部屋を見て驚いていた。旅行者ではなくここに住んでる人だと思ったのだろう。
この頃俺は、玄関マットや壁に飾る絵(タンカ)なども自分で購入して自分の住みやすいように部屋を模様替えしていたのだ。
ホテルオーナーのラジューも特に何も言わないので、かなり自由に使わせてもらっていた。

「何年くらいいるの?」と言われたので、「いやー、まだ2ヶ月位ですよ」と答えた。
それから自己紹介を交えつつ、しばらく話をした。
金髪のモヒカンの男性は、「W君」といって、俺と同じ歳だった。
黒い服装の鼻ピアスの男性は「8ちゃん(はっちゃんと読む)」と言って、一つ年下。二人は幼馴染らしく、一緒にインド・ネパールの旅に出てきたという。

W君も8ちゃんも、見た目の通りパンクが好きで、俺も大好きだったのですぐに仲良くなった。

しばらくして俺は「ちょっとカフェにでも行きましょう」と言って、自分の部屋を出て、二つ隣のS君の部屋を改造して作った「LEGTIMERS CAFE」に入った。

W君も8ちゃんも、まさかホテルの部屋がカフェに改造されているとは思わなかったようで驚いていたが、かなり気に入っていた。
俺は、「このホテルはちょっと変わった住人が多いんだ。もともとここに滞在してる旅行者同士でバンドやってて、先月レイクサイドでもライブやったんだよ」と話した。
二人は「なんだかよくわかんないけど楽しそうだから、ここに移るよ!」と言った。

彼らは一旦ホテルに戻ると、チェックアウトを済ませて、すぐにまたやってきた。
そして無事にホテルひまりのドミトリーにチェックイン。こうしてまたホテルひまりの滞在者が増えた。

俺はその夜、二人を食堂に招き、滞在してるバンドのメンバーに声をかけ集合してもらい、晩飯を喰いながら演奏をして彼らに唄を聴かせたのだ。出会いの宴である。
彼らは、すっかり気に入ってくれて、メンバーみんなともすぐに仲良くなった。

そのとき、8ちゃんが「俺もギター弾けるで」と言った。

「お!ほんと?」と俺は言い、早速ラジューのギターを借りて、二人で一緒に弾いたりした。
8ちゃんは唄もギターも上手くて、一緒に音を出せるのがとても嬉しかった。
もう少し早く出会ってればバンドで力になって貰えたのになぁなんて思ったりもした。

W君も一緒に唄を歌ってくれた。W君も昔バンドで唄っていたそうで、パンクス独特の声を張る歌唱法でみんなを惹きつけていた。
懐かしいパンクの曲をカヴァーしたりして、その日は遅くまで唄い明かした。

その後もこの二人とは毎日一緒に呑み、毎日演奏して唄った。

そのうちC君とW君と8ちゃんと俺で、「月の爆撃機」という名前のパンクユニットを組んだりして遊んだ。
「インドでライブやれるかなー?」「さすがにインドはライブハウスないでしょー?」なんて会話もした。


2000年、年末のホテルひまりは、他にもたくさんの人が出入りしていた。ちょっとここで記録のためにも記しておこうと思う。

毎日誰かしら俺の部屋に顔を出してくれ、しばらく遊んで帰っていった。
中には隣のホテルからベランダを超えて俺の部屋の窓から遊びに来るやつらもいた(笑)

みんな個性的で、それぞれが変なあだ名で呼び合っていた。

「おにゃんこ」
「組長」
「達人」
「ナオトくん」
「四代目」
「若旦那」
「ノブ」
「アンジくん」

などなど。。

どいつもこいつも長期旅行のツワモノバックパッカーで色んなエピソードを持っているので、話を聞くのが楽しかった。
彼らとも、今現在になっても交流があり、このひまりでの出会いは本当に宝物だといえる。

特に「四代目」や「ノブ」とは、その後インドの旅でも一緒に行動し、仲良くなっていった。

「四代目」は、のちのち大阪でゲストハウスの管理人を始め、rainmanの関西ツアーの宿泊の拠点を作ってくれた。
「ノブ」は、のちのちオーストラリアの旅でディジュリドゥ吹きになり、raimanの1stCDのレコーディングにも参加してくれた。
大切な友達であり、恩人たちだ。

そんな楽しい毎日を過ごしているうちに、あっという間に2000年も残り2週間ほどになった。

その頃になるとひまりのメンバーも半分以上はインドに旅立っていた。
Nさん、Oちゃん、C君、T、Zさん、BOSS、K君と、見送りを繰り返すうちに、少しずつ静かになっていくホテルひまりを眺めながら、俺もそろそろ出発かなと思った。

俺はインドビザ取得のため、一度カトマンズに向かった。
月極めで部屋代を払っていたので、ひまりでの部屋や荷物はそのままでいけた。
インド大使館にインド3ヶ月滞在用のビザを申請して、5日ほどで無事に取得することができた。
そして再びホテルひまりに戻ってきた。

ネパールでは結局2度も滞在ビザを延長し3ヶ月いたことになる。
移動にたいして億劫になっていた俺の心も、やっと旅人らしく「やる気」が出てきた。

ネパール・ポカラからインドに陸路で入るには、スノウリという国境の町を経由する一泊二日のバスの旅が主流だった。
この国境越えは、過去の旅でも1度経験していた。スノウリで宿を取り、次の日の朝国境を越えれば、もうそこはインドだ。
俺はインドに入ったら、「バラナシ」というガンジス川の流れる「聖地」とも呼ばれる街まで一気に移動するつもりでいた。97年の旅でZさんと出会ったあの街だ。

俺は、ラジューに「12月24日に、ネパールを発つよ」と告げた。
ラジューは、少し寂しそうに「そっか、大ちゃんもついに行っちゃうんだね」と言った。

「そこで、ラジューにちょっとお願いがあるんだ」
「なに?」
「せっかくクリスマスイブからクリスマスにかけて移動するわけだし、俺、サンタクロースになろうかなと思って…」
「え?サンタクロースになるって??どういうこと?」
「サンタクロースの赤と白の服と帽子あるじゃん。あれ、どこかの生地屋さんで作ってもらうことできないかな?お金はいくらでも払うからさ」
「あ、なるほど。サンタの格好するのね!わかった。大丈夫だよ。たぶんそんなに高くないよ」
「ありがとう!じゃあ23日の夜までに仕上がるようにお願いします」

というわけで、俺は、サンタクロースでインド入国を目指すことになったのだ。

 

 

 

 

rainmanになるちょっと前の話。25


「12月24日にポカラを発つ」そう決めて、ラジューにバスのチケットを予約してもらった。
いざ、出発の日が決まってしまうと、残り数日のポカラでの日々が急に愛おしくなる。
俺はひまりの屋上で一人、これまでの旅を思い出したりしながら最後のポカラを過ごした。

日本を出て8ヶ月が経とうとしていた。
その間、様々なことがあり俺は旅人達とバンドを結成して、ここポカラで二度のライブを行った。
まさか自分の旅がこんな展開になろうとは思ってもいなかった。
そして、これからの旅もどうなっていくのか?インドでなにがおこるのか?俺にはまったく予想がつかなかった。

メールでの情報だと、先に旅立っていったひまりのメンバーは、それぞれのルートでバラナシに到着し、再び再会を果たしているようだった。ホテルひまりのように一箇所に固まってはいないものの、一緒に飯を食ったりしているらしい。
俺は、それぞれのメンバーにメールで「クリスマスにバラナシに到着予定」と送った。

この間のポカラでも何曲か唄を作った。
ライブは終わってしまったが、日記代わりに曲を書くという行為は終わらなかった。
「WELCOME!MY FRIEND!」なんかも、俺の部屋に遊びに来る友達を思って、この時期に作った。
「晴れるよ。」なんかもホテルひまりをテーマにして作った曲だ。
後に、rainman名義で「ヒマリホテルの花」というアルバムを出すほど、この「ホテルひまり」での日々は俺の中でとても大きなものになっていた。
勿論この時は、自分がCDを出すような状況になるとは思っていなかったが…。

そうこうしているうちに、とうとう12月24日、ポカラを発つ日の朝が訪れた。
約束どおり、ラジューは前日の夜にサンタクロースの衣装を用意してくれていた。
俺はそれを着てからバックパックを背負った。赤白の帽子も勿論装着。
着心地はなかなか良い。
鏡を見たら、ヘンテコな「悪るそうなサンタさん」がそこに映っていた(笑)。

もうホテルひまりに残っているTHE JETLAG BAND!!!のメンバーはS君だけだった。
S君は「俺は新年明けてからインドに下りるよ。バラナシでまた会おう」と言った。
「じゃあバラナシで!」と俺は言い、S君と、この旅何度目かの別れの握手をする。

ラジューはバス停まで見送りに来てくれた。

いよいよバスに乗る時間やってくる。

「ラジュー、本当に世話になったね。ありがとう!」
「こちらこそありがとう。大ちゃん達が居て楽しかったよ。また来てね」
「もちろん、また来るよ」

ラジューと抱き合い固い握手をした後、俺はバスに乗り込んだ。

ラジューは、バスが見えなくなるまで手を振ってくれた。

こうして、長かったネパール、ホテルひまりでの生活は終わった。

約7時間後、まだ日が沈む前に、バスは国境の町「スノウリ」に着いた。
この町で一泊して、明日の朝インド国境を越えることになる。

俺はバスターミナルの近くの適当なホテルにチェックインした。
チェックインの際、ホテルの従業員は俺をジロジロ不思議な顔で見ている。
その理由はわかっていた。
俺が赤と白の変な服を着ているからである(笑)。

サンタクロースの格好でバスに揺られる間、反応してくれるのは欧米人旅行者だけだった。
欧米のバックパッカーは「オー!メリークリスマス!!」とか声をかけてくれるのだが、現地のネパール人はまったく無反応だった。というより、「こいつ何赤と白の変な格好してんだ?」という感じで見られる。
やはり、仏教&ヒンズーの国ネパールでは、キリストの誕生日など特に関心はないのだ。
考えてみれば当たり前である。仏教徒なのにクリスマスで盛り上がる日本がちょっと特殊なのだ。

どの国もそうなのだが、国境の町っていうのはなんとなく落ち着かない。
その中でも特にスノウリは人も車も多くて、喧騒の町という感じだった。
俺は長期滞在したいとは絶対に思わない町だ。
それにスノウリは治安の面でもあまり良い噂は聞かない

俺はスノウリに来たのは2度目だが、前回来たときは、インドとネパールの時差30分を利用した詐欺にあいそうになった。
国境を超えると30分時間がずれるのだが、慣れていない旅行者はその際、時計を進めるのか戻すのかわからなくなってしまう。
チケットを見せて予約したバスに乗ろうとすると、バスのスタッフに「このチケットのバスはもう出発したよ。時計の針を間違えて動かしたんだろ?もう○時だよ。もう一回チケットを買い直さないと乗れないよ」などと言われ、本当はそのバスであっているのに2重に料金を払わされたりする。
国境周辺のやつらは、こういうチンケな嘘で小銭を稼いでいるのだ。

今回も、チェックインしたホテルが最悪だった。
部屋に荷物を置いてから、ホテルの向かいにあるレストランに飯を食いに行ったんだけど、急用ができたので、注文した飯が出てくる前に一度部屋に戻ったんだ。そうしたら、閉めたはずの部屋のドアが開いていて、中を見たらホテル従業員が俺のバックパックをあさっていた。

アジアの安宿は、部屋のドアをロックする場合、南京錠を使うことが多い。
その際、「ホテルが用意してある南京錠は使わずに、自分の用意した南京錠で鍵を閉めること」という鉄則がある。ホテル側が用意した南京錠だと合鍵を持ってるので、ホテルのスタッフに出入りされてしまうのである。
俺は、3ヶ月のホテルひまりの生活で、すっかり平和ボケしていて、その鉄則を忘れていたのだ。
幸い、何か起きる前に見つけたからよかったものの、飯を食ってから部屋に戻っていたら何か盗まれていたかもしれない。

俺のバックパックをあさっていた従業員は、俺と目が合い「しまった!」という顔をした。
俺は、サンタクロースの格好で大暴れ(笑)。この従業員が同じことを繰り返さないようにと、愛の鞭!「うりゃああああ!」

まったく、とんだクリスマスイブになってしまった。

そんなこともありながら、なんとか夜を超え(面倒だからホテルは変えなかった笑)、次の日を迎えた。

そして、朝早く国境を越え、遂にインド側の国境ゴーラクプルへ入国!
俺にとっては人生3回目のインド入国である。

しかし何度来ても、インドは楽観的になれない。

まず第一に汚い。国境を越えた瞬間からハエが多いのだ。

そしてインド人がみんな詐欺師に見える(笑)。
もちろん良いインド人も多いのだが、悪いインド人も「良いインド人」の顔で近づいてくるので、警戒してしまうのだ。

さぁ、インドだぞ。気を引き締めていかないと!と、俺は思った。

バラナシ行きのバスが出るバスターミナルまで歩いていくと、目の前に見覚えのある男達が立っていた。
「だいちゃーん」と手を振っている。
パンクス2匹。W君と8ちゃんである。俺も思わず顔がほころぶ。

彼らは数日前にひまりを出たはずなのだが、まだこんなところでいったい何をやっているのだろうか?
まぁそんなことはどうでもいい。心強い仲間が増えて、インドの移動も楽しくなりそうだ。
俺らは「メリークリスマス!」と握手を交わした。

バスに揺られ揺られて、約8時間後、日が沈んで真っ暗の中、ついにバラナシに着いた。

W君と8ちゃんは、俺がバラナシ経験者ということで頼りきってくる。

しかし、バラナシという街は迷路のように細い路地がはびこっているのだ。
こんな真っ暗で、西も東もわかるわけがない。
こういう時はガンジス川を目指すのだ。
川沿いに出ればなんとかなる。

俺らは、現地の人に聞きながら「ガンガー」をひたすら目指した。

この時の俺には、まさかこの約3週間後、ガンジス川で船上ライブをやるなんて、これっぽっちも想像していなかった。

 

 

rainmanになるちょっと前の話。26


インド北部中央に位置するバラナシ(ベナレス)という街は、アジア各国に点在する「街」と呼ばれる集合体の中でも、一線を画した彩を放ち、独特なオーラに包まれた、一度訪れたら忘れられない印象的な街である。

首都ニューデリーやカルカッタなどの巨大都市に見られる喧騒的な顔も、バラナシでは垣間見ることが出来るのだが、街に流れるガンガー(ガンジス川)とその淵に作られたガートと呼ばれる沐浴場の存在によって、都市のイメージだけではない、どこか懐かしい人間そのものの故郷に戻ってきたような不思議な安心感がこの街にはある。

俺はインドをイメージするときはいつもバラナシの景色になる。
最もインドらしいインドがバラナシにはあるような気がする。

2000年12月末、3ヶ月に渡り滞在していたネパール・ポカラを出た俺は、3年ぶりに、ここバラナシの街に足を踏み入れていた。

ホテルひまりで生活していたメンバーとも、到着した次の日に無事に再会を果たした。
一人また一人とポカラの町を出ていったメンバーだったが、それぞれがそれぞれのルートでここバラナシに辿りついていたのだ。

ポカラでライブをしたTHE JETLAG BAND!!!のメンバーでは、Nさん、C君、T、そしてOちゃんが滞在していた。また、バンドを支えてくれたBOSSやK君、Zさん達もいた。
その中に、俺と2匹のパンクスW君と8ちゃんが加わったわけだ。

ポカラライブを開いたときのあの興奮が、少し蘇ったような再会だった。
俺らは共にライブをしたことによって、戦友同士のような強いつながりになっていた。

みんなは、大きく二つのホテルに別れて滞在していた。
3年前に俺とZさんが出会ったガート沿いの老舗ホテル「ビシュヌレストハウス」と、ガンガーと大通りの間に広がる迷路のような細い路地地帯の中にある比較的新しい「ウルバシゲストハウス」。
二つのホテルの距離は、迷路を迷わずに歩けば10分程度だった。

俺は最初ウルバシGHに泊っていたのだが、その後ビシュヌRHに移った。
やはりビシュヌRHは、庭からガンガーとガートが見下ろせるという最高のロケーションがついてくる。多少部屋は古いが、この景色には叶わないのだ。

ビシュヌRHにはZさんも泊っていて、3年前の話などもよくした。
まさか3年後にこうしてまたZさんと、ここビシュヌRHで遊べるとは思っていなかった。しかも、今回は他にも仲間達がたくさんいる。
前回、孤独とインドに対する恐怖でいっぱいになっていた俺には考えられない状況だった。

俺は毎朝、Zさんと共にビシュヌRHの真下のガートに下りて、ガート沿いのチャイ屋でチャイを飲んで過ごすのが日課だった。

ガートにはいくつものチャイ屋があるのだが、ビシュヌRHの真下にあるコーリーガートを仕切るチャイ屋がZさんのご贔屓だった。

そこは、子供たち兄弟が運営を任されていて、チャイの他にもお菓子やタバコなどが売っており、またガンガーの対岸や上流まで向かう手漕ぎボート等も貸し出していた。
子供たちといっても、ガンガーガート沿いで生きている子供を日本の子供と同じように見てはいけない。彼らは物心ついたときから、外国人と接触し生き延びるために様々な知恵や外国語を身につけお金を稼いできている。
10歳になればもう立派な大人であり、20歳になっていればもうその一帯をまとめるボス的な存在になっているのだ。

Zさんは、このチャイ屋の子供たち兄弟とも仲がよった。
俺に、「一番上がジャグー、次男がパガル、三男がサンジェイだよ」なんて名前を教えてくれた。
長兄のジャグーは、この時20歳だと言っていたが、とても落ち着いた感じで25歳の俺よりもはるかに年上に見えた。
弟やその周りの子供たちのジャグーへの接し方を見ても、かなりの権力を持っているようだった。Zさんは、ジャグーを指し「まぁ、あいつはこのへんを仕切るマフィアのボスみたいなもんやね」などと真顔で言った。

またZさんと一緒にチャイを飲んでいる時、よくインド人が勝負を挑んできた。もちろん俺にではなく、Zさんにだ。
実はZさんはプロボクシングのライセンスも持つ格闘家でもあるのだ。
ガート沿いの敷地には現地の人が体を動かすトレーニング場などもあったりするのだが、Zさんはそこで他のインド人達と「筋トレ」や「寸止めの組み手のようなもの」を一緒にやり、よく汗を流していた。
それを知っているインド人達が、「俺とも勝負しろ」とチャイ屋の前までやってくるのだ。
その勝負にいつもZさんは勝ってしまうので、負けたインド人が次の日自分より強い友達を連れてくる。おかげで毎朝、俺は目の前で日本人とインド人の奇妙な決闘を見ながらチャイをすすることになる。

そのうち、毎日決闘を見ている俺自身も、なぜか触発されて、Zさんにコーチになってもらい、毎朝トレーニング場で筋トレをするようになったりした(笑)。
旅でなまっていた身体を動かして汗をいっぱいかくのは気持ちよかった。まぁ、あまり長続きしなかったが(笑)。

バラナシでは他にも、Tシャツ作りにも精をだした。
刺繍で模様を描くネパールとは違い、インドはシルクスクリーンで印刷するTシャツ作りが主流だった。
俺は「THE JETLAG BAND!!!Tシャツ」やWさん8ちゃんらと組んだパンクユニット「月の爆撃機Tシャツ」なんかを作って遊んだ。

安くてたくさん作れるので、近くにいた旅行者にもTシャツを分けたりしていた。

そんなことをしていると、自然に「インドではライブやらないの?」という話をされた。
この頃は、けっこうネパールでのライブが噂になっていたりして、初めて会った旅行者にも「あ!ポカラでライブやった人だよね?」と言われるようになっていたのである。

俺は、「さすがにインドではライブハウスはないだろうし、機材も揃わないし、無理っすねー」と答えていた。

タブラやシタールなどの演奏を聞かせる小部屋なんかはあっても、ライブハウスという文化はバラナシにはなかったのだ。


そうこうしているうちに、2000年の大晦日を迎える頃になった。
いよいよ20世紀も終わりである。

実はこの頃になると、俺の周りは少し異様な空気が流れていた。

俺に対して、あまり好意を持たない現地人などが現れてきたのである。

どうやら、俺らTHE JETLAG BAND!!!は少しこの街で目立ちすぎていたのかもしれない。
同じTシャツを着ている日本人が何人もいて、レストランにいけば店の屋上(VIPルーム)に案内され大騒ぎ。そういう暮らしを見て、面白くないと思うインド人がいたとしても、気持ちはわかるような気がした。
俺自身、特に目立つつもりはなかったのだが、少し風変わりなイメージの濃い旅人が固まって遊んだりしていると、イヤでも目立ってしまうのである。

そんな雰囲気を抱える中、俺はガート沿いで数人の仲間達と21世紀を向かえた。

欧米や日本での「ミレニアム!」な年越しとは比べ物にならないほど、地味で静かな新世紀の幕開けであった。

無事に新年を迎えたはいいが、俺は新年早々体調を崩してしまった。
熱が出て、体がだるく、一日中部屋のベッドで過ごした。

新年も3日目を向かえた1月3日の朝、相変わらず風邪が治らずベッドで寝込んでいると、部屋のドアを叩く音が聞こえた。
誰だろう?とドアを開けると、そこにはZさんが立っていた。

「大ちゃん調子はどうだい?もしよかったら、ちょっとこれから出られないかな?ジャグーが呼んでいるんだ」
とZさんは言った。

「え?なんでジャグーが?」
俺は、風邪で弱気になっていたせいもあり「もしかしてマフィアのボス・ジャグーにまで嫌われちゃったかなぁ」なんて思ったりした。

「風邪だから」と、行くのを断ろうとも思ったのだが、Zさんも一緒だし、なるようになるかという気持ちで、Zさんと一緒に部屋を出た。

まだ熱があるせいか頭は朦朧としていた。
Zさんはガンガー沿いのガートを上流へ上流へとひたすら歩く。

洗濯場所になっているガート、沐浴場となっているガート、死体焼き場となっているガート、いろんなガートを横切って進んだ。
ガートは様々な顔を見せるが、それら全てを受け入れるガンガーだけは進んでも進んでも同じ茶色の濁った川だった。

30分ほど歩いた頃、Zさんはある建物に入った。
後について入ると、中にはジャグーが居た。

ジャグーは俺を見ると手を出してきた。俺はその手を握り返し握手をした。
いったい俺にどんな話があるというのだろうか?

息を殺して黙っていると、突然Zさんが「大ちゃん、バラナシでライブできる場所探しとったやろ?ジャグーがなんとか出来るって言うんだよ。」と言った。

「え?!」
ジャグーの顔を見たら、俺を見てうなずいている。

「バラナシにそんな場所あるの?けっこう音もでかいし、人数も多いから小さい所じゃできないよ?」と俺は言った。

Zさんがその事をジャグーに伝えると、ジャグーは「大丈夫、誰にも迷惑かけず大きな音も出せるし、100人くらい集められる広さもある」と言う。

俺はびっくりしてジャグーを見た。

「いったいそんな場所が、バラナシのどこにあるんだい?」

ジャグーは、まっすぐ俺の顔を見て、静かに答えた。

「オン ザ ガンガー」

ガンジス川の上だと…。

 

 

 

rainmanになるちょっと前の話。27


バラナシでライブが出来る場所なんていったいどこにあるんだ?という俺の問いかけに、ガンガーガートを仕切るボス・ジャグーは、「オン ザ ガンガー」と答えた。

ガンジス川の上でライブ?

その時まだ俺は、ジャグーの言葉の意味を理解できずにいた。
ガンジス川の上で、いったいどうやってライブするというのだろう。

どういうことなの?という顔をしていると、隣にいたZさんが、「ジャグーは100人くらい乗れるビッグボートを持ってるらしいんだよ。それに乗って、ガンジス川に浮かびながらライブするっていうのはどうだ?って話なんだよね」と言った。

一瞬、目からウロコが落ちたような感覚になった。

たしかに、ガンジス川の上なら、大きな音を出しても迷惑がかかることはないかもしれない。

「ガンジス川船上ライブか…」と俺は声に出してつぶやいていた。

うん。なんかいいかも。
文字の響きもかっこいい!

しかし、まだ俺はいくつか疑問を抱えていた。
本当に100人乗りの船なんてあるのだろうか?俺が、バラナシの生活で目にするボートは、せいぜい大きくても10人乗りくらいだった。
旅行者をガンガーの対岸に連れて行ったり、川を遊覧するのに、そこまで大きなボートは必要ないのだ。

そして、ボートの上でライブをするならマイクやスピーカーなど電源が必要なものは用意できないことになる。
全て生音で唄ったり演奏したりするしかない。
しかし大型の船なら「エンジン付きの船」になるだろう。
そうなると、演奏が、エンジンの音で掻き消されてしまうのでは?という心配もあった。

ジャグーは、「これからその船を見せるから付いて来てください」と言った。
そうだ、直接その船を見るのが一番早い。
俺は、ジャグーとZさんの後を付いて、そのビッグボートを見に行くことにした。

ガンガー沿いのガートを、再びまた上流へと進んだ。
すれ違うインド人の若者はみんなジャグーに会釈をする。

しばらく歩くと、ジャグーが立ち止まった。
そして「あれです」とガンガーの方を指差した。

そこには、まさしく「ビッグボート」があった。

俺は思わず「おおおー」と声を出していた。
想像していたよりも遥かにでかかった。
木で出来ていて、ドッシリとしていた。

ジャグーが「このボートは手漕ぎなので、エンジンは付いていません。8人で漕ぎます」と説明してくれた。
よく見ると両サイドに4つずつオールが取り付けてあった。
8人で漕ぐというだけで、船の大きさは想像してもらえるだろうか。本当にバカでかい船なのだ。


手漕ぎボートなら、エンジンの音もないし、生音での演奏でも問題ないのかもしれない。
船の端で演奏したら、反対の端までは音は届かないかもしれないが、船の真ん中をステージにしたら、両サイドに音が届くかもなぁとその時とっさに考えていた。

俺は、思い切ってやってみようかな、という気持ちになった。

俺らの集団に好意をあまり持っていない現地人にも、俺らが何者なのかを見せられるかもしれないし、第一にまず、Zさんとジャグーが俺のために力を貸してくれたことが嬉しかった。

俺はジャグーに言った。
「OK、この船を貸してくれ。この船でライブをしたい!」
ジャグーは「OK」と言って握手してきた。

決まりである。

さっそく俺は、Zさんを挟んでジャグーと細かな話をはじめた。


まず「値段」だ。

こんな大きな船だし、料金もけっこう高いだろうなと予想したのだが、意外と安かった。
1日借りて「US30ドル」だと言うのだ。3000円しないのである。
まぁ、宿のシングルルーム1泊の値段が3ドルから5ドルなので、インドの物価でいえばかなりの大金なのだが。
俺はディスカウント交渉などはせずにジャグーの言い値で手をうった。
こんな大きな船を貸してくれるのだ。ジャグーとせこい話はしたくなかった。

次は「日時」だ。

とっさに俺は1月15日で、と答えた。
もうすぐ誕生日だと言っていた旅人がいて、その日が1月15日だったのだ。
深い意味はないが、せっかくなのでお祝いも兼ねて遊べるのでは?と思ったのだ。
ジャグーは日にちに関しても「OK」と言った。
時間に関しては、大体昼過ぎ頃から日が暮れるまでって感じにした。

そして「発着場所」だ。

これもすぐに決まった。ビシュヌRHの真下のガートからの出発になった。
俺らが泊っているホテルの下だし、ジャグーのチャイ屋もそこにある。
「OK、では昼過ぎにそこに船があるように移動させておきます」とジャグーは言った。

それからジャグーから提案があった。

長時間船に乗っていると、トイレに行きたくなる客やチャイを飲みたくなる客も出てくるのでは?と言うのだ。
たしかにそうだなと思った。
そこで、「トイレの為に対岸やガートに向かう船」や「チャイ&ビール屋の船」や「食べ物屋の船」等をビッグボートの周りに待機させるという。そして、その船は是非俺の店の船でやらせてくれと言うのだ。
もちろん異論はなかった。
俺は「よろしく頼むよ」と言った。
さすがこの辺一帯のボスだけあって、ジャグーは頭がキレる。
ビッグボートだけではなく、船を取り囲む周りの小船もすべて商売の対象なのだ。

こうして全ての交渉は終わった。

約10日後の2001年1月15日の昼過ぎ、ビシュヌRHの真下にあるコーリーガートから出航し、ガンジス川上で船上ライブをやることになった。


俺とジャグーを繋げたZさんは、満足そうに笑っていた。
「大ちゃん、面白いことになってきたね」
「ありがとう。Zさんのおかげだよ」

帰り道のガートを歩く頃には、すっかり体も軽くなっていた。どうやら熱も下がってきたようだ。

俺は興奮していた。
ネパールに続き、ここインド・バラナシでもライブが決まった。
しかも聖なる川、ガンジス川の上での船上ライブだ。

早く他のメンバーに伝えないと!

そう思うと、自然と足早になった。


その日の夜、早速THE JETLAG BAND!!!のメンバーに集まってもらった。


そして、今日あった事を話し、ライブをすることになったと伝えた。

みんな「えーーー!」と驚いていた。

Nさんが笑いながら「ガンガー船上ライブかぁ。文字にするだけでかっこいいっすね」と言った。
俺が最初にこの話を聞いたときの感想と同じだった。

C君が「じゃあまた練習しっかりやらないと、ですね」と俺を見た。

Tが「よっしゃーポカラのライブのリベンジができる!」と言った。Tはレイクサイドのライブの日、声が枯れてしまって悔しい思いをしていたのだった。

Oちゃんは「このキーボード、電池でも動くから大丈夫だよ」と笑った。

俺は「そこで、ちょっと提案なんだけど、W君と8ちゃんにもメンバーになってもらおうかと思うんだ。どうかな?」と話した。

W君はいるだけでかなり目立つし、歌声も力強かった。8ちゃんはギターを弾けるので、音に厚みが出せる。

みんなは「もちろん!」と二つ返事で承諾してくれた。

その場にちょうどW君と8ちゃんも居合わせていたので、すぐに聞いてみた。

二人は、「嬉しいよ!面白いことになってきやがった!」と笑った。
こうして、さらにメンバーが2人増えたのだ。

俺は、まだポカラのホテルひまりに滞在しているであろうS君にもメールをした。
「S君!ひょんなことからバラナシでもライブすることになったんだ!しかもガンジス川の上で船上ライブ!15日にやるから急いでインドまで下りてきてよ!」

「すごい話になっとるな(笑)まぁそろそろ出るつもりだったから、そう待たせはしないよ」という返事がきた。


早速次の日から、俺らは練習を開始した。

ネパールの時の様に、ラジューが用意してくれた「ひまり食堂スタジオ」は無いので、どこでやろうか?という話になったが、答えは簡単だった。

ガンジス川にボートを浮かべてやればいいのである。本番もそうなのだから。

こうして、再びTHE JETLAG BAND!!!は新しいメンバーも入り活動を再開した。

ガンジス川の上で。

 

 

 

 

rainmanになるちょっと前の話。28

ガートの若者達をまとめるボス・ジャグーから100人乗りの手漕ぎボートを借り、1月15日に「ガンジス川船上ライブ」を決行することになった我々THE JETLAG BAND!!!は、早速ガンジス川に小船を出してもらい、その上でリハを重ねた。

8ちゃんがギターを弾けるので、ポカラの時のライブよりも音が厚くなり色んなアレンジにも挑戦することができた。

メンバーみんな、あの時のポカラライブの快感を忘れられないらしく、とても本番を楽しみにしているようだった。
ステージの上で自分を表現するという行為は、経験したものにしか解らない独特な快感があるのだ。あの快感を知ってしまうと癖になる。
ライブを知るものだけにわかる、特別な中毒性があるのだ。


毎日、曲のアレンジなどを考えて、みんなで音を出すのは楽しかった。
雨の日は、ウルバシGHの室内屋上で練習したりもした。

そうこうしているうちに、あの男がポカラからバラナシにやってきた。
S君である。

この時のS君の登場は、なかなか印象深いものがあった。
なんと彼は「ドラえもん」の格好でインドINしてきたのだ。
ドラえもんとは、あの「ドラえもん」のことである。

S君は、青のつなぎの服を着て、前には四次元ポケットもつけていた。
そして赤いスカーフを首輪のように巻き、しっかりと鈴までつけているのである。

もちろん、その格好でのS君の登場にみんな驚き、大爆笑。
「なんて格好してるの?」「どうしたんすか?いったい」と、みんなに問いかけられたS君は、「いやー、大ちゃんがクリスマスにサンタクロースでインドINしたなら、俺もなんかやらんとあかんやろー!」と言った。

別に俺がサンタになったからといって、S君は普通で良いと思うのだが、彼的には「なにかやらないとあかん」となるらしい(笑)。
「で、いろいろ考えたんやけど、やっぱり無事に21世紀を迎えたということで、ドラえもんかな…と!」とS君。
「21世紀」で「ドラえもん」。
あー、なるほど。

ラジューに頼み、サンタの衣装を作ってくれた生地屋で、新年早々ドラえもんも作ってもらったらしい。
ラジューも俺らのバカな遊びに付き合わされて大変だろうな(笑)。
しかし、かなりクオリティの高いドラえもん衣装だ。
遊びでもしっかりと要望に応えてくれるラジュー。やはり、さすがである。


その後俺は、ドラえもんのままのS君と一緒に飯を食いにいったのだが、道を歩くだけで旅行者や現地人などから記念撮影をせがまれていた。とにかく目立つのである。
そして色々な質問をされ、それには普通に答えるのだが、なぜか名前を聴かれたときだけは「ぼくドラえもんです」と大山のぶよのモノマネで答えていた。ほんとバカである(笑)。
しかし異国の地でこういうバカができる男が俺は大好きなのである(笑)。

ドラえもんS君の合流で、THE JETLAG BAND!!!の練習も益々活気が出てきたのであった。


そうそう、この時期もう一つ忘れられないエピソードがあった。
ホテルひまりの後期のメンバーに「四代目」というニックネームの旅行者がいたのを覚えているだろうか。
彼ともこの頃、バラナシで再会を果たすのである。

彼はカメラマンであった。
大きな一眼レフのカメラをいつも首からぶら下げていて、俺らの活動の記録を収めてくれていたのだ。

しばらくバラナシでも一緒に生活したのだが、実は彼は先を急がなければいけない理由があり、1月15日の船上ライブを見ずに先にバラナシを列車で出ることになっていたのだ。
もう既に列車のチケットも購入してあった。
俺が「四代目に船上ライブの写真撮ってもらいたかったなぁ」と言うと、「撮りたかったなぁ。でも、もうチケット買っちゃってるし…、残念だよ」と四代目は答えた。

そして、出発の前日を迎えた。
俺と四代目はビシュヌRHのテラスにいた。
俺は「明日で旅立ちですね。ほんとに、船上ライブの写真撮らずに出ていくんですか?本当に先を急がなければいけないの?」と、しつこくもまだそんな問いかけをした。
そうしたら四代目から意外な答えが返ってきた。
「行くのやめよっかな。君らのライブ撮ってみたい」

俺はびっくりした。「え!?まじすか!それなら残りましょうよ!是非撮ってください!」
四代目は「うん、そうするよ」と言ってポケットから列車のチケットを取り出し、それをビリビリと破いて空に舞い上げた。

破かれたチケットは、風に乗り、ビシュヌRHのテラスからガートを超え、ガンガーの上までヒラヒラと舞っていた。
紙吹雪のようですごくキレイだった。

四代目はそれを見ながら「あー、これですっきりした。よっしゃ、あんたらにとことん付いていきますわー」と言った。

俺は手を差し出して握手をした。

この後、四代目によって収められたガンジス川船上ライブの写真は俺の宝物になるのだった。


バラナシでは、チラシをコピーするのにも一苦労だった。
2001年当初はなかなかコピーを簡単にしてくれるような店がなかったのだ。しかし、なんとか300枚程度のチラシをコピーすることが出来た。

俺らは、ポカラライブのときと同じように、チラシを町中の食堂やゲストハウスに配った。
チラシには、バンド名と日にちと船の出発するガートの名前と、そして出航時間を書いた。
もちろんチャージは無し、FREEだ。船を借りるのに30ドルかかったが、こんな面白い遊びができるんだし安いもんだ。俺は既に自分の旅費からジャグーに30ドルは渡していた。

そして誰でも、どの国籍でも、どんな人種でも、どんなカーストでも、俺らの船には乗れるんだってことも書いた。
いろんな人が一つの船に乗れたら最高だなと、そう思った。


いったい、日本人によって行われるガンジス川上の船上ライブなんかに、どれくらいの人が集まってくれるのだろうか。
インドではあまり期待できないかもしれないな。
そんなことを思いながらチラシを配った。


そして、ついに、ライブ当日の朝を迎えることになる。


俺は起きたあと、いつものようにビシュヌRHのテラスに出て、その下に広がるガートとガンジス川を見下ろした。

一瞬、あれ?ここどこ?という錯覚に陥った。

いつもの朝と違うのだ。

いつもより、何倍も人が多い。
人がごちゃごちゃと集まっているのだ。

俺は、「今日は人が多いなー、なにかヒンズー教の行事があるのかな?」と思いながらガートを眺めていた。
しかし、眺めているうちにあることに気付いた。

みんな手に紙切れを持っているのである。

そして、その紙切れを良く見たら、俺らが町中に配ったチラシではないか!

俺はゾクっとした。

「この人たち、船上ライブのために朝早くからこのガートに集まってるんだ!」


出航時間まで、まだ大分先なのに多くの人々がガートで戯れているのだ。


そして、お昼に差し掛かったころ、100人乗りのビッグボートが、ゆっくりとガートに入ってきた。
俺以外のメンバーは、この時そのビッグボートを初めて見たのだが、予想以上の大きさに驚いているようだった。

さぁ、いよいよ、ガンジス川船上ライブが始まるのだ。

 


rainmanになるちょっと前の話。29


2001年1月15日、ついに「ガンジス川船上ライブ」当日を迎えた。

俺らが配ったチラシを片手に持った人々が、まだ出航までだいぶ時間があるというのに、続々と船が出航するガートに集まってきている。
その光景を、ビシュヌRHのテラスから見下ろしていると、だんだん胸が熱くなってきた。
俺の旅というより、俺の人生において、なんだか今日は特別な日になるような気がした。

他のホテルに泊っているメンバーも、ガートに集まってきたようだ。

Nさんは全身黒の衣装で、珍しくサングラスなんかしている。
S君は、やはりドラえもんの格好だった(笑)。
Oちゃんはサリーを纏っている。
C君とTは、色違いのバンドTシャツだ。
W君は、まるでサドゥーのようだ。
8ちゃんは魔術師にみえる(笑)。
BOSSやK君もいる。

俺は、みんなに向かって、ガートまで運ばれ来たビッグボートを指差し、「それじゃ、早速セッティングしちゃおうか!」と言った。
ボートの前にはZさんと、この船の所有者ジャグーがいた。
俺は二人と握手をして、そのでかい船に乗った。

みんなもそれぞれの楽器を手に、乗り込んだ。

俺らは計画していた通り、船の中央部分に、円を囲むように向かい合った。
そしてまずリズム隊とキーボードが、座る。そしてその周りを囲むように、ギターボーカルやハーモニカ部隊が陣取った。
すべて生音なので、なるべく遠くまで良いバランスで音や声を届かせるには、どういう布陣がいいのか…リハを重ねながら座る位置を決めていたのだ。
とりあえず、少しずつ位置を微調整しながら1曲演奏してみた。
船が停まった状態なので、動いたらどうなるのかはわからなかったが、「結構いい感じ」に聞こえた。みんなも周りの音がよく聞こえてやりやすいと言っている。

俺は「じゃあ、これでいこうか」と言った。

俺はこの時、まぁなるようになるだろう…という気分だった。
正直、俺らはそんなに演奏がうまいわけじゃない。というか、まだライブを2回しか経験していない素人だ。
その2回のライブも、一応音響さんが音を拾ってくれて、それなりにライブっぽい音になったかもしれないが、今回は生音。しかも船の上。そして船はガンジス川を流れていくのだ。こんな特殊な環境で、どうすればうまくできるか?なんてこの時点で悩んでもしかたがない。今日のライブがどんなことになるのか、想像もできなかった。

もう「思い切ってやるだけだ」と、多少なげやりな感じも混ぜつつ、セッティングを終えた。

一度船を下りて、出航時間まで時間をつぶした。

ガートには、さらに人が増え続けた。
船上ライブが珍しいのか、それともただ暇なだけなのか、ほんとうに色んな人種が集まってくる。

俺はなんとなく気持ちを落ち着けたくて、ガートの階段で座っていたBOSSの近くに行き、他愛もない話をしていた。

陽が傾き始めた頃、いよいよ出航時間が近づいてきた。

ジャグーが「客を乗せていいか?」と俺のところまで尋ねにきた。
俺は「OK」と答えた。

ジャグーの合図で、ガートに戯れていた人々が、次々と船に乗り込んでいく。

驚いたのは、欧米人が多いことと、インド人が多いことだった。
日本人は全体の3分の1くらいだったと思う。

ほとんど曲は日本語で作った俺のオリジナルなんだが、言葉の壁は大丈夫かなぁと少し心配になった。

隣にいたBOSSが、「大ちゃんもそろそろ船のほうに行きなよ。みんな大ちゃん待ってるよ」と言った。
俺は、「そうですね。行ってみます」と言って、立ち上がり、船を目指した。

船にはこれ以上乗れないだろうというくらい沢山の人が乗っていて、乗り切れない人もいるようだった。
乗り切れない人は、ジャグーの手配した小ボートに乗り、ビッグボートの周りを囲むように浮かぶようだった。

船に乗ったみんなが、船に近づく俺の方をじっと見ている。
心臓がドキドキした。

俺は、船に飛び乗った。

そして船の中央に陣取るメンバーの近くに行き、ギターを持った。

NさんやS君と目が合った。その時、ドキドキしていた気持ちが、一気に落ち着きを取り戻したように感じた。
メンバーと一人一人ハイタッチした。
みんないい顔をしていた。
俺は、「よし。余計なこと考えずに、今を楽しもう」という気持ちになった。

俺には、この旅で出会った仲間が沢山いるのだ。

みんなと一緒なら大丈夫だ、そう思った。


そして、船がゆっくりと動き出し、ライブは始まった。


この日のライブは、俺がこの旅で作った曲を、最初から順番に唄うような形で曲順が決められていた。

唄いながら、自分の旅をおさらいしているようで、懐かしくなった。

ベトナムでギターを初めて買って、Nさんにプレゼントした唄。
NさんやS君とベトナム・カンボジアで再会を繰り返しながら作った唄。
タイで新しくギターを買い、作った唄。
ラオスでバンドを作り、ライブをやろうと決めた頃の唄。
中国で、C君やT、BOSSやK君と過ごした頃の唄。
5人でチベットを超えながら作った唄。
ラサでOちゃんとキーボードを弾きながら作った唄。
ネパールで、ホテルひまりに滞在しながら作った唄。

 

唄い始めたら、緊張などはどこかに飛んでしまい、俺は、ひたすら自分の唄の世界に入り込んでしまった。

 

しばらくすると突然、水の音が聞こえた。

なんだろうとそっちを見ると、何人かの欧米人が興奮して船からガンジス川にダイブしたようだった。
「HOOOOO!」と奇声を上げている。
その行為で俺はやっと、周りを気にする余裕が出来た。
船の様子を見渡すと、はしゃぐ欧米人だけじゃなく、インド人のおじさんや子供たちも船の上で立って踊っている。

信じられない光景だった。

俺の唄で、俺らの演奏で、船に乗っているみんなが楽しそうに体を揺らし、ニコニコしながら踊っているのだ。


船に乗りしばらく時間が過ぎた。演奏も終盤だ。
あたりは夕暮れに差し掛かっている。
ガンガーの上から見あげるバラナシの街が、オレンジ色に染まりキレイだった。
ガンガーの水辺も、キラキラしている。


ふと気付くと、一つ帽子が、船の上を、人から人へ移動していた。

俺は、その帽子を見ながら「なにをしているのだろう?」と思いつつ演奏を続けていた。


日が沈む直前、俺らはついに全ての曲の演奏を終えた。

船はジャグーの指揮の元、出航したガートに戻るような感じで進んでいる。

「なんとか終われたな…」と、ほっとしながら船の進む方向を見ていると、一人のニュージーランド人が俺に話しかけてきた。

「ヘイ、ジャパニーズ、今日はこんなスペシャルなイベントを開いてくれて本当にありがとう。とてもナイスだった!この船を借りるのもきっとお金がかかったんだと思う。そこで、俺らは少しだけど、御礼の変わりにカンパしたいと思う!」
そう言って、さっき船の上を回っていた帽子を俺に差し出してきた。

帽子の中を見ると、そこにはインドルピーやUSドルがたくさん入っていた。

みんな船の上で、カンパのために、帽子にお金を入れて回してくれていたんだとその時わかった。

ぐっと来た。嬉しすぎて泣きそうになった。

俺は、声にならないお礼を言って、その帽子を受け取った。

帽子には、船代の30ドルをはるかに超える金額が入っていた。


船がガートに近づき、みんな陸に下りていった。
下りるとき、船に乗った全ての人とを握手をした。

そして、握手を繰り返しているその時、俺はある一つの意識が、頭の中ではっきりと産まれつつあるのを感じていた。


この旅を始めるにあたり、見つけたかったもの。
旅に変わる「何か」を探すために、俺はこの「最後の旅」に出たのだった。

それが見つかったような気がした。

この時、旅に出て初めて、「唄を唄って生きてみたい」という想いが、俺の中に生まれているのに気付いたのだ。

 

もうすこしだけ 続く

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