さえないバックパッカーがガンジス川船上ライブをするまでの軌跡 4

 

rainmanになるちょっと前の話。29


2001年1月15日、ついに「ガンジス川船上ライブ」当日を迎えた。
俺らが配ったチラシを片手に持った人々が、まだ出航までだいぶ時間があるというのに、続々と船が出航するガートに集まってきている。 その光景を、ビシュヌRHのテラスから見下ろしていると、だんだん胸が熱くなってきた。 俺の旅というより、俺の人生において、なんだか今日は特別な日になるような気がした。

他のホテルに泊っているメンバーも、ガートに集まってきたようだ。
Nさんは全身黒の衣装で、珍しくサングラスなんかしている。 S君は、やはりドラえもんの格好だった(笑)。 Oちゃんはサリーを纏っている。 C君とTは、色違いのバンドTシャツだ。 W君は、まるでサドゥーのようだ。 8ちゃんは魔術師にみえる(笑)。 BOSSやK君もいる。
俺は、みんなに向かって、ガートまで運ばれ来たビッグボートを指差し、「それじゃ、早速セッティングしちゃおうか!」と言った。 ボートの前にはZさんと、この船の所有者ジャグーがいた。 俺は二人と握手をして、そのでかい船に乗った。
みんなもそれぞれの楽器を手に、乗り込んだ。

俺らは計画していた通り、船の中央部分に、円を囲むように向かい合った。 そしてまずリズム隊とキーボードが、座る。そしてその周りを囲むように、ギターボーカルやハーモニカ部隊が陣取った。 すべて生音なので、なるべく遠くまで良いバランスで音や声を届かせるには、どういう布陣がいいのか…リハを重ねながら座る位置を決めていたのだ。 とりあえず、少しずつ位置を微調整しながら1曲演奏してみた。 船が停まった状態なので、動いたらどうなるのかはわからなかったが、「結構いい感じ」に聞こえた。みんなも周りの音がよく聞こえてやりやすいと言っている。

俺は「じゃあ、これでいこうか」と言った。
俺はこの時、まぁなるようになるだろう…という気分だった。 正直、俺らはそんなに演奏がうまいわけじゃない。というか、まだライブを2回しか経験していない素人だ。 その2回のライブも、一応音響さんが音を拾ってくれて、それなりにライブっぽい音になったかもしれないが、今回は生音。しかも船の上。そして船はガンジス川を流れていくのだ。こんな特殊な環境で、どうすればうまくできるか?なんてこの時点で悩んでもしかたがない。今日のライブがどんなことになるのか、想像もできなかった。
もう「思い切ってやるだけだ」と、多少なげやりな感じも混ぜつつ、セッティングを終えた。

一度船を下りて、出航時間まで時間をつぶした。
ガートには、さらに人が増え続けた。 船上ライブが珍しいのか、それともただ暇なだけなのか、ほんとうに色んな人種が集まってくる。
俺はなんとなく気持ちを落ち着けたくて、ガートの階段で座っていたBOSSの近くに行き、他愛もない話をしていた。
陽が傾き始めた頃、いよいよ出航時間が近づいてきた。
ジャグーが「客を乗せていいか?」と俺のところまで尋ねにきた。 俺は「OK」と答えた。
ジャグーの合図で、ガートに戯れていた人々が、次々と船に乗り込んでいく。

驚いたのは、欧米人が多いことと、インド人が多いことだった。 日本人は全体の3分の1くらいだったと思う。
ほとんど曲は日本語で作った俺のオリジナルなんだが、言葉の壁は大丈夫かなぁと少し心配になった。
隣にいたBOSSが、「大ちゃんもそろそろ船のほうに行きなよ。みんな大ちゃん待ってるよ」と言った。 俺は、「そうですね。行ってみます」と言って、立ち上がり、船を目指した。

船にはこれ以上乗れないだろうというくらい沢山の人が乗っていて、乗り切れない人もいるようだった。 乗り切れない人は、ジャグーの手配した小ボートに乗り、ビッグボートの周りを囲むように浮かぶようだった。
船に乗ったみんなが、船に近づく俺の方をじっと見ている。 心臓がドキドキした。
俺は、船に飛び乗った。
そして船の中央に陣取るメンバーの近くに行き、ギターを持った。
NさんやS君と目が合った。その時、ドキドキしていた気持ちが、一気に落ち着きを取り戻したように感じた。 メンバーと一人一人ハイタッチした。 みんないい顔をしていた。 俺は、「よし。余計なこと考えずに、今を楽しもう」という気持ちになった。

俺には、この旅で出会った仲間が沢山いるのだ。
みんなと一緒なら大丈夫だ、そう思った。
そして、船がゆっくりと動き出し、ライブは始まった。
この日のライブは、俺がこの旅で作った曲を、最初から順番に唄うような形で曲順が決められていた。
唄いながら、自分の旅をおさらいしているようで、懐かしくなった。
ベトナムでギターを初めて買って、Nさんにプレゼントした唄。 NさんやS君とベトナム・カンボジアで再会を繰り返しながら作った唄。 タイで新しくギターを買い、作った唄。 ラオスでバンドを作り、ライブをやろうと決めた頃の唄。 中国で、C君やT、BOSSやK君と過ごした頃の唄。 5人でチベットを超えながら作った唄。 ラサでOちゃんとキーボードを弾きながら作った唄。 ネパールで、ホテルひまりに滞在しながら作った唄。

唄い始めたら、緊張などはどこかに飛んでしまい、俺は、ひたすら自分の唄の世界に入り込んでしまった。

しばらくすると突然、水の音が聞こえた。
なんだろうとそっちを見ると、何人かの欧米人が興奮して船からガンジス川にダイブしたようだった。 「HOOOOO!」と奇声を上げている。 その行為で俺はやっと、周りを気にする余裕が出来た。 船の様子を見渡すと、はしゃぐ欧米人だけじゃなく、インド人のおじさんや子供たちも船の上で立って踊っている。
信じられない光景だった。

俺の唄で、俺らの演奏で、船に乗っているみんなが楽しそうに体を揺らし、ニコニコしながら踊っているのだ。


船に乗りしばらく時間が過ぎた。演奏も終盤だ。 あたりは夕暮れに差し掛かっている。 ガンガーの上から見あげるバラナシの街が、オレンジ色に染まりキレイだった。 ガンガーの水辺も、キラキラしている。


ふと気付くと、一つ帽子が、船の上を、人から人へ移動していた。
俺は、その帽子を見ながら「なにをしているのだろう?」と思いつつ演奏を続けていた。


日が沈む直前、俺らはついに全ての曲の演奏を終えた。


船はジャグーの指揮の元、出航したガートに戻るような感じで進んでいる。

「なんとか終われたな…」と、ほっとしながら船の進む方向を見ていると、一人のニュージーランド人が俺に話しかけてきた。

「ヘイ、ジャパニーズ、今日はこんなスペシャルなイベントを開いてくれて本当にありがとう。とてもナイスだった!この船を借りるのもきっとお金がかかったんだと思う。そこで、俺らは少しだけど、御礼の変わりにカンパしたいと思う!」 そう言って、さっき船の上を回っていた帽子を俺に差し出してきた。

帽子の中を見ると、そこにはインドルピーやUSドルがたくさん入っていた。
みんな船の上で、カンパのために、帽子にお金を入れて回してくれていたんだとその時わかった。

グッと来た。
嬉しすぎて、目頭が熱くなった。
俺は、声にならないお礼を言って、その帽子を受け取った。

帽子には、船代の30ドルをはるかに超える金額が入っていた。


船がガートに近づき、みんな陸に下りていった。 下りるとき、船に乗った全ての人とを握手をした。
そして、握手を繰り返しているその時、俺はある一つの意識が、頭の中ではっきりと産まれつつあるのを感じていた。
この旅を始めるにあたり、見つけたかったもの。 旅に変わる「何か」を探すために、俺はこの「最後の旅」に出たのだった。
それが見つかったような気がした。

この時、旅に出て初めて、「唄を唄って生きてみたい」という想いが、俺の中に生まれているのに気付いたのだ。

 

 

rainmanになるちょっと前の話。30(最終話)


ガンジス川船上ライブが終わった。

片づけをして、船が去っていく頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。
俺はライブの興奮が冷めず、しばらく放心状態のまま、夜のガンガーを眺めていた。
まるで夢の中のような1日だった。
しかし、夢ではないのだ。
俺らは確かに、ガンジス川に浮かぶビッグボートの上で長時間に及ぶ船上ライブを決行したのだ。


ガンジス川船上ライブによって俺の中に産まれた感情、「唄を唄って生きてみたい」という想いは、その後も日に日に強いものになっていき、俺の心を支配した。
そうなると不思議なもので、旅の当初に決めた「飛行機を使わずに遠くへ行こう」というルールや、「世界一周したい」という思いは、どうでもいいような気になってくる。
そんなことより、日本に戻って唄を唄って生きていくにはどういうやり方がいいのか?そんなことばかり考えるようになった。

 

しばらくすると、ついにNさんがバラナシを旅立つ日がやってきた。

ベトナムでNさんと出逢った事によって、俺は音楽の楽しさを知り、唄うことの面白さを思い出した。
そんなNさんとの別れは、とても印象深かった。
リキシャに乗って去っていく後姿が喧騒の中に消えてもなお、俺は手を振った。
この時の別れを「サヨナラしないよ。」という唄にした。

Nさんがいなくなることによって、俺のTHE JETLAG BAND!!!としての旅も、「これで本当に終わったんだな」と実感できた。

 


この後の、俺の旅を簡単に記しておこうと思う。

俺はこのあと、バラナシにいた仲間達何人かと、インド南部の「ゴア」という町に移動した。
自分の中では「ライブの打ち上げ」という位置づけだった。
色々今後のことを含め、海の見える場所でゆっくりのんびり考えたいと思ったのだ。

ゴアという町は、知る人ぞ知るヒッピーの聖地。俺も旅人として一度は訪れておきたかった。

ゴアに一緒に行ったメンバーは、S君、C君、T、K君、BOSS、W君、8ちゃん、そして四代目。
他にも仲良くなった旅人が何人か合流した。
ゴアでは、2階建ての家を2件貸しきって、みんなで過ごした。
英語が達者な四代目が、大家さんと交渉してくれて月極めで安く借りられた。

家から徒歩3分でビーチだった。
俺らは毎日、昼は海で泳ぎ、夜はマーケットにいったり町中で行われているパーティーに顔を出したりした。
こんなに毎日が楽しくていいのか!というほど、楽しい日々を過ごした。
ゴアは、自由を求めるヒッピーのパワーで成り立つ、まさに自由の国だった。

しかし、2ヶ月近く経った頃、突然ふと思い立った。

「そろそろ一人旅に戻ろう」と。


いつまでも気の合う仲間達と一緒に遊んでいられたら…そんなステキなことはない。
しかし、俺らはもともと一人旅の旅人なのだ。
居心地の良い場所にいつまでもいるわけにはいかない。
いつかはみんな一人に戻らなければいけないのだ。

俺は、ゴアの町を出る決心をした。
そして、旅行代理店に行き、飛行機のチケットを取った。
俺のことを誰も知らない遠くの国へ飛んでいこうと思った。

俺はみんなに「明日、ゴアを出るよ。今日、モロッコ行きの飛行機予約してきたんだ」と言った。
みんなはとても驚いていたが、「いよいよそんな時が来たか」という感じだった。

みんなとの別れは予想以上に寂しくて、何度も後ろ髪を引かれた。
「またすぐ日本で会おう!」そう言い合って、握手をして別れた。
この時の出発を、後に「リセット」という唄にしている。


俺は、インドのボンベイから、一人飛行機に乗り、北アフリカモロッコに降り立った。
なぜ、モロッコを選んだか。
それは、砂漠が見たかったからだ。

俺は「旅の終わりの景色」を探していた。
自分の中で、「日本に帰ってからやりたいこと」が出来た以上、しっかりと「旅」に区切り」を付けたかった。

サハラ砂漠を、俺の旅の終わりの景色にしようと思ったのだ。

モロッコ・カサブランカから、リシュケシュを経由して、メルズーガという砂漠の町を目指した。
今まで、何ヶ月も回りに仲間がいた状態だったので、モロッコでの一人旅は予想以上に寂しかった。
しかも、モロッコはフランス語圏で、英語も通じなく移動や日常生活にかなり苦労した。

しかし、それも「いいリハビリだ」と思う余裕があった。
THE JETLAG BAND!!!の旅を経験したことによって、孤独や苦労を楽しめるようになっていたのだ。

砂漠の入り口の町、メルズーガにやっと辿り着いた。
明け方、日が昇る前にサハラ砂漠に入り、大きな砂丘を上りきったとき、遥か先から太陽が昇ってくるのが見えた。
光が広がり、目の前が「砂の海」に変わったとき、今までの旅が走馬灯のように頭をめぐって涙が止まらなかった。

「旅の最後の景色」を無事に目に焼き付けることができた。

 

その後、再びカサブランカに戻ってきた。

砂漠も見たことだし、ここで日本に帰ればいいのだが、やはり俺は根っからの旅人なのかもしれない。
「せっかくだし、ちょっとヨーロッパにも寄ってから帰ろうかな」なんて気分になった。
次に旅に出るのはいつになるかわからない。いま見たい場所を、見れるだけ見ておくのも悪くない!そう思った。

俺は、ヨーロッパにはまだ行ったことがなかったし、どうしても見たい街が二つあった。
「ロンドン」と「アムステルダム」だ。
旅資金にもまだ少しだけ余裕があったし、日本に帰る前に少し観光してみようと思った。

俺はカサブランカから、イギリス・ロンドンまでの飛行機を手配した。

 

霧の深いロンドンに無事に降り立った俺が最初に思ったのは、自分の服装がかなり浮いている!ということだった。
アジアや砂漠を貧乏旅行していた俺の服装は、ぼろい布切れを纏っているようなものだった。
空港から列車に乗っただけで、他の乗客にジロジロ見られた。
俺は、ホテルにチェックインしたあと、すぐに服を買いに行った。

街を歩くだけで、今までのアジアの国とは明らかに違っていた。俺は、上下左右きょろきょろしながら歩いた。ただの田舎ものだった。パンクスが通りかかるだけで「おーー!ロンドンっぽい!」と興奮した(笑)。
それはもう、なにもかもに凄まじい刺激を受けた。
ヨーロッパに寄ってよかった!と思った。
アジア・アフリカだけで帰国するより、かなり俺の旅の幅が広がった気がした。

 

ロンドンではBOSSの先輩にあたる□□さんという方にお世話になった。
BOSSは以前ロンドンに暮らしていたので、俺が「ロンドンにいる」とメールをしたら、現地に住んでいる□□さんを紹介してくれたのだ。
□□さんは、ロンドン郊外で開かれているパーティーに連れて行ってくれた。
廃校を改造したような場所で、そのパーティーは行われていた。
もうぶったまげた。
日本のクラブシーンなんて比べ物にならないくらい、異次元の世界が広がっていた。
現地に住んでいる□□さんと一緒だからこそ見ることができた世界だった。□□さんを紹介してくれたBOSSに感謝した。

他にもロンドンではライブを見たり、古着を買ったり、遊びまわった。
アジアで3週間暮らせるくらいのお金が、一日で泡のように消えていった。


数日後、ロンドンから、海底を通るバスに乗り、オランダ・アムステルダムに入った。

アムステルダムも、どうしても一度来ておきたかった街だ。

アムステルダムも、予想していた以上にぶっとんだ街だった。
街中がオモチャ箱みたいなのだ。
こんなに自由でお茶目な街が存在して良いのか!と思うくらい、日本とはかけはなれた価値観で出来た先進国だ。
本当に見ておいてよかったと思った。

5日間ほど、アムスで過ごし、いよいよ俺の旅資金もそこをついてきた。
本当に、ヨーロッパでは金が減っていくのが早かった。

俺は、「そろそろ日本に戻ろう。もう充分だ。今見たいものは全部見た。日本でやることをやらないと!」と思った。

最後の旅資金で、俺は日本までの飛行機のチケットを買った。


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こうして、俺の「最後の旅」と位置づけた、13ヶ月に及ぶ放浪生活は幕を閉じた。

 

日本に帰ってからは、みなさんの知っている通りだ。

俺は、さっそくメンバーを探し、「rainman」というバンドを組んだ。

メンバーには「気の合う友達」を誘っただけだ。
みんな音楽などやったことのないやつらだったけど、そんなことは全然気にしなかった。
演奏が出来ないなら、「出来るまで練習すればいい」だけだ。
それは、俺が旅で教わった大事なことであり、俺はそんなバンドを作ってみたかったから。

俺らはただただ練習した。練習して1曲1曲仕上がっていくのが楽しくてしょうがなかった。

 

そして、ガンジス川船上ライブから、ちょうど1年後の、2002年1月15日。

「rainman」はついに初ライブを決行する。

初ライブにして、ライブハウスを貸し切るイベントを企画。
イベント名は「BACK PACK BLUES NIGHT VOL.3」した。

VOL.0が、ポカラのホテルひまりの庭。
VOL.1が、ポカラのライブバー・クラブ アムステルダム
そしてVOL.2が、バラナシのガンジス川船上ライブ

そして、今回がVOL.3だ。


俺の旅は、まだまだ終わっていなかったのだ。

「最後の旅」に出てわかったことは、「最後の旅」なんて無いってことだ。

旅は、形を変え、景色を変え、いくつもの壁を超え、続いていくのだ。

 

2002年1月15日のデビューライブから、12年と2ヶ月。

俺らは突っ走るように「rainman」という旅を続けた。

様々な出会いと別れを繰り返し、俺らだけにしか見れない旅の景色をたくさん見てきた。


その旅が、もうすぐ終わろうとしている。


だけど、この12年のrainmanの旅が、「最後の旅」ではないという事も、また俺は知っているのだ。

 


最後まで読んでくれてありがとう。
旅の途上にて。

 

「rainmanになるちょっと前の話」完


rainman daisuke

改め

daisuke otherghat

 

 

 

 

 

 

PS

 

rainmanになるちょっと前の話。15周年

 

「THE JETLAG BAND!!!の15周年」

 

2016年、2月6日、THE JETLAG BAND!!!と名のりネパールやインドでライブをした仲間達が再び集結することになった。
場所は「四代目」が管理人を務める大阪のシェアハウス「オレンジハウス」の屋上にあるラウンジ。

再び集結!なんて書くととてもドラマチックに感じられるが、実際のところはそうでもなく、関西に拠点を置いてる仲間達は、毎年「新年会」と称して近郊の人だけで集まって近況を伝え合っていたのだ。
昨年、大阪在住の「Cくん」が東京に訪ねてきたときにその事を聞き、俺が「来年の新年会は俺も東京から参加する!」と言い出したため、「日程が決まりました」との連絡が来ただけである(笑)

しかし、関西の皆は毎年のことかもしれないが、よくよく考えると今年は2001年に散会して15年、わりと記念すべき年である。
これは「俺が東京から参加する新年会」という名目より、関東在住の仲間にも声をかけ集まってもらい「15周年記念の集い」にしたらどうだろうか!という熱い想いが沸いてきた。
そこで関東のみんなを呼びかけ、関西のみんなを巻き込みつつ、今回の「THE JETLAG BAND!!!15周年記念集会」が実現した次第である。

 

俺は「T」と一緒に、朝9時半の新幹線に乗り、東京から大阪を目指した。
「T」とは一昨年10年ぶりくらいに再会したあとはチョコチョコと会っていた。
出会った当時18歳だった「T」も、もう30代半ばである。

今回の大阪への旅は、俺も「T」も、表にこそ出さないがとても興奮していたと思う。
特に「T」は10周年のときに参加していないので、15年ぶりに再会できる仲間もいるとあってその興奮も只ならぬことではないかと想像する。

 

新大阪駅から御堂筋線に乗り昭和町駅に着いたのが13時ごろ。ここから徒歩7分ほどの場所にオレンジハウスがある。オレンジハウスはrainman時代、関西ツアーの拠点となる寝泊り場所として提供してもらいとても馴染みのある、お世話になった場所だ。

他のみんなは12時集合で、すでに会は始まってるらしい。
早くみんなの顔が見たくて、俺ら二人は小走りに住宅街を移動した。

オレンジハウスの屋上までの階段を駆け上がり、ラウンジに入ると、そこには懐かしい顔が揃っていた。

歓声があがる。

実は、ほとんどのメンバーが俺らの参加を知らされておらずサプライズな登場となったのだ。

大げさではなく、自分の原点に戻ってきたような気持ちになり「ただいまー」という言葉が出ていた。

一人一人と握手。みんないい顔をしてる。
まだ着いて5分も経っていないが、「今日ここに来てよかった」とみんなの手のひらを感じながら思った。

 

今回参加したメンバーを、記念に記しておく。
 

 

■四代目 今回の場所の提供人。THE JETLAG BAND!!!ではネパール・インドと、カメラマン&マネージャー(宿の管理人)をしてくれてた。立ち居地はあの頃と変わらず(笑)誠実で頭の良い兄貴である。今回は奥様と子供2人も参加(というか自宅)。上の子はもう小学生か。早いなー。

 

■Nさん THE JETLAG BAND!!!を作るきっかけになった重要人物。俺の精神安定剤であり、みんなからの人望も厚いまっすぐな男。旅中は仙人のような風貌だったため、15年経って若返った?との声あり。現在京都でキコリをしているらしい。彼女募集中?

 

■S君 THE JETLAG BAND!!!では数々の伝説をつくってきた俺の相棒。インドガンジス川船上ライブではドラえもんの格好だった。現在、京都在住で、今回は奥様と娘(2才)も参加。すっかりいいパパになってた。「ヴァンビエン村」一緒に唄いたかったな。

 

 

■C君 THE JETLAG BAND!!!でTとともにハーモニカを演奏。その後rainmanでも正式メンバーに。お世話になってるかわいい弟分。現在大阪在住。今回は奥様と息子(1才)も参加。というか奥様のKちゃんは本編には出てこないが濃い時間を過ごした旅仲間で、今回の集会の幹事さんでもあります。Kちゃんありがとう!

 

■8ちゃん THE JETLAG BAND!!!でW君とともに合流したパンクスの一人。相変わらずかっこよかった。rainman時代は、滋賀ライブの時によく泊らせてもらった。今も滋賀在住。今回は奥様と息子(1才)も参加。いいパパだった。

 

■Mさん THE JETLAG BAND!!!のネパールライブにインドから舞い戻りライブに参加した大兄貴。10周年のときに来ていないので俺とは約13年ぶりの再会に。優しくて、愛しのよっぱらいです。しばらくアメリカに住んでいたが現在は兵庫在住。「みんな、なるようになったなぁ」とシミジミ話していた。

 

■Oちゃん THE JETLAG BAND!!!ではキーボードを担当した唯一の女性。ずっとインドのダラムサラに住んでいたので、今回の参加は本当にびっくりした。当日まで知らなかったし。今回は息子(3才)と参加。すっかりママになっていた。地元が東京なので、またそのうち会えるかな。

 

■Zさん THE JETLAG BAND!!!結成前から数々の旅を重ねてきた古い友人。俺のジョーカーであり兄貴であり親友。下北沢在住なので一緒に行こうと誘ったがはぐらかされて、来ないのかと思ったら、夕方いきなりふらっと現れた(笑)まさかの登場にみんな大興奮。いつだって全部もっていく男である。

 

■NOBU ネパール、インド・ゴアで遊んだ旅人。ディジュ吹きでrainmanのデビューCDにも参加。現在は葡萄を作っている実業家。最近二人目の子供が産まれたらしい。

 

■なっつん 本編には出てきていないがC君の奥様Kちゃんと共にTHE JETLAG BAND!!!のおっかけwをしてくれた旅人。当時は大学生だったけど、いまはすっかり頼もしいママに。今回は旦那様と息子(4才)と参加。最近和歌山に越して来たらしい。

 

■T 俺と一緒に東京から参加。15年ぶりの再会を楽しんでいた。帰りの新幹線で「いやー、いい旅だった」と何度もつぶやいていた。行ってよかったなT!

残念ながら来れなかったTHE JETLAG BAND!!!のメンバー

 

■K君 奈良在住。家族みんなが風邪ぎみらしく、「周りの子供にうつしたら申し訳ないから」と参加を断念。電話で話したが、今は自分の家を建築中らしい。絵の好きな山男であり大工。頼もしいパパである。

 

■BOSS 九州在住のため断念。しかしメールしたところ「これからインドにいく!」と言っていた。今頃、デリーで上手いカレーでも食っているのだろうか。相変わらず気ままな旅を続けている憧れの不良兄貴。

 

■Wくん 行方不明(笑)これ見たら連絡してよ。

 

 

というような感じで、やはり15年、みんなそれぞれ自分の人生を歩んでいた。

結婚して子供が出来て。。。

言葉の疎通がまだ上手くできない子供同士が触れ合って遊び、それを母親達が隣で見守り、その後ろで親父達が15年前の旅の話で肩を抱き合う。
15年前にはまったく想像できなかった景色だったけど、きっと15年前からこの風景は決まっていたのかもしれない。という気もする。
2000年から2001年にかけて、みんなと過ごしたのは正味半年くらいだ。
でも、こうして時が経ってもその時のメンバーがその時の顔のままで笑い合える。
俺にとっても勿論だけど、みんなにとっても特別な半年間だったんだなと想い、また熱くなった。
「旅」という「非日常」の中での「出逢い」が、記憶や繋がりをより濃くしてくれたんだと思う。

鉄板で焼いてくれる手作りたこ焼きをツマミに、ラウンジを自由に使った宴は続いた。

オレンジハウスのテラスが夕日に染まりだし本当にオレンジハウスになった頃、俺は立ち上がってみんなに叫んだ。

とっさに発した言葉だった。

「えー、ジェットラグ20周年の話なんですが、ネパールのポカラ集合でお願いします。みなさん、各自積み立てしておきましょう、よろしく!」

5年後の20周年をみんなで過ごした思い出の地で集まれたらステキじゃないか。
ふとそんな景色が頭をよぎり、口に出してしまった。

みんなは「またそんなこと言い出したよー」と呆れていたが、Zさんが「この男は口に出したらやる男やけん」などと言い出し、引くに引けない感じになって…(笑)。
結局みんなも、ポカラで野外パーティーをやろうとか、ラジューと連絡を取れるのは誰だ?とか言い出し、5年後の話で盛り上がっていた。

夕日が沈んで間もない頃、母親達が少しずつ帰り支度を始めた。
お昼寝を返上して遊びまくった子供たちも、そろそろお休みの時間。
昔なら先頭きって朝まで騒いでいた奴らが、「それじゃそろそろ」と別れの挨拶をはじめる。
Nさんはけっきょく呑まずに、京都方面のみんなを車に乗せて帰った。
みんなそれぞれの役目や守るものがあるのだ。

そのままオレンジハウスに残った独身グループと俺は、深夜近くまで思い出話に耽り、その後は四代目のご好意でシェアハウスの1室で寝かせてもらった。

シェアハウスの薄い布団に横になると、ふとあの頃の旅で過ごしたゲストハウスの布団の中にいるような気がした。

まさに夢のような1日だった。

友情に感謝。
旅に感謝。
そして、この大阪への旅に「楽しんできてね」と快く送り出してくれた妻と娘に感謝。

こうして15周年の再会は夢と現実の狭間で幕を閉じたのでした。

はたして、20周年は??
まだこの物語は終わらないようだ。


せんきゅーまいふれん

 

dsk.og

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