rainmanになるちょっと前の話。12
遂に、ゴルムド→ラサ間の闇バス社会を仕切る男、ワンさんに接触できた我々「チベット越え5人衆」。
Nさんと俺は、さっきワンさんから聞いた作戦を、ホテルの部屋で待っていた3人にすべて話した。
3人とも様々な反応をした。
そこで俺は、今の気持ちを率直にみんなに伝えてみた。
「正直、俺は一刻も早くラサに行きたい。なんかゴルムドの町は好きになれないんだよね。公安の見張りとか多いし…。確かにワンさんに頼めば安いけど、リスクもあるし、時間もかかりそうだ。俺は明日、正規の外国人値段でバスのチケット取って、先にラサに行こうと思う。」
俺の話を聞いてみんなは少しびっくりしたようだが、Nさんに「それもありだね」と言われた。
もともと俺らは一人旅の旅人の集まりだ。それぞれが自分で決めた道を進めばいい。誰もそれに口を出したりしない。
NさんとK君は、「せっかく運命的にワンさんに会ったので、この流れに乗ってみるよ」と言った。特にK君は頼もしいくらい張り切っていた。
C君は「俺は…なんだか気持ちがもうラサに行っちゃってるし、大輔さんと同じバスで明日ラサに向かいますよ」と言った。
Tは、しばらく「どうしようか…」と悩んでいたが、決心が付いたようで「俺は残ります。ワンさんの作戦でラサまで行く!」と言った。
こうして、ゴルムド→ラサ間は、俺とC君の「正規料金組」と、NさんとK君とTの「闇バス組」の2つに別れて移動することになった。
まぁ、料金が違うだけで通る道は一緒だし、到着する場所も一緒なので、ラサで待っていればすぐにまた5人揃うだろう。
「じゃあ先に行って待ってるよ!ゲストハウスが決まったらメールするからそこで落ち合おう!」
俺らは握手を交わして、それぞれの部屋に戻った。
次の日の朝、俺とC君は正規の値段を払い、無事に朝8時半に出発するバスのチケットを取った。
ワンさんの作戦に乗るほうが、面白い旅のエピソードが出来るかな?という思いもあったが、それ以上に俺は「ラサ」に向かいたかった。「ラサ」は、俺にとって今回の旅の「行きたい街ベスト1」だったのだ。ラサを目の前に、ゴルムドで後何日も過ごすなんて我慢できなかった。
バスには、中国人、チベット人、欧米人そして何人かの日本人が席いっぱいに詰め込まれた。
シートは狭く、背もたれもほんの少し動かせる程度だった。
これからラサまで約1200キロに及ぶヒマラヤ超えの移動が始まる。無事に辿り着くことを祈った。
最初のチェックポストに差し掛かった。
公安が何人かバスに乗り込んできて、リストを見ながら一人一人の顔を覗き込んでくる。
けっこうしっかりチェックされたので、俺は後からくる3人のことが少し心配になった。
こんな感じのチェックポストがラサに着くまで、数箇所あるのだ。ワンさんの部下が乗って通り過ぎるのはここ最初のチェックポストのみ。ばれたら強制的にゴルムドに返されてしまう。なんとかバレずに辿り着ければいいが。
しかし、次第に俺らは他人の心配などしていられないほど、自分の体調管理に頭がいっぱいになっていった。
バスはどんどん荒野を進み、いよいよヒマラヤ山脈の中に突入していった。
俺のG-SHOCKには標高計が付いていたのだが、その数字がどんどん上がって行く。
頭が少し重いなぁと思った頃、標高計を見たら「−−−MAX−−−」という表示が現れた。
このG-SHOCKは確か5000Mまでしか計れない。つまりバスは今標高5000M以上の場所を黒い煙を出して走っているというわけだ。
朝出発したのに、いつのまにか辺りは暗くなっていた。
そろそろ腹も減っている。しかし、こんなところに飯を食える場所なんてあるのだろうか。
そう思っていると、明かりが灯っている建物が窓から見えた。バスはその建物の前に停まった。
運転手が「30ミニッツ!」と言った。30分休憩だ。
建物は、粗末な小屋だったが、中から湯気が出ていた。
俺はとにかく暖かいものがほしくて、その小屋に駆け込んだ。
そこは食堂だったが、メニューを見て驚いた。まともな飯はカップラーメンくらいしか置いてないのだ。しかもすごい高い!
でも、文句を言っていられない。標高5000Mで飯にありつけるだけでも有難いと思った。
カップラーメンのお湯はぬるかった。酸素が薄いためお湯が沸く沸点も低いのだ。
しかし、ぬるいお湯でも有難かった。ほんと涙がでるくらい、体にスープが染み渡っていった。
その後もチェックポストを越えながら、バスは暗闇を走り続けた。
薄っすら空に色がついたころ、俺は体の異変に気付いていた。
なんだか熱があるようで体が重いし、頭が痛い。となりのC君もかなりつらそうだった。
俺らはゴルムドで買っておいた携帯酸素ボンベを出して吸った。
少し楽になったような気もしたが、あまり長い効果は得られなかった。
もしかしたら、これが「高山病」というやつかもしれない、と思った。
高山病になるかどうかは、運だと言われていたが、どうやら俺らは運がなかったようだ。
やっと朝日が昇って明るくなった頃、俺らの体はすでに「虫の息」といった感じだった。
もうかれこれ24時間、この狭い空間で動けないままじっとバスに揺られているのだ。
しかし明るくなった後の、窓から見える景色は凄まじかった。
標高5000Mがどんな景色なのか、何度も思い描いてきたけど、そのどれもに当てはまることの無い景色だった。無機質で草一本も生えてない、見たこともない荒野が広がっていた。朦朧とした頭で、俺はその景色を目に焼き付けていた。
途中、エンジントラブルでバスを修理したり、チェックポストでしばらく待たされたり、なかなかスムーズにバスは進んでくれなかった。
すでに夕方に近くなっていた。
いったいいつになったらラサに辿り着くのだろうか。もう時計を見るのも嫌になっていた。
バスに乗って二度目の夕焼けが見え始めた頃、バスは山道を抜けたように思えた。酸素が濃くなってるのを感じるのだ。
そしてバスに乗って31時間後、しずかにバスが動きを止めた。
乗客が声を上げて喜んでいる。俺は運転手に「ラサ?」と聞いた。運転手は「ラサだ」と言った。
俺も声にならない声をあげてしまった。着いた。やっとラサに着いた。
俺とC君は、転がるようにバスの外に飛び出た。
そのままバックパックを枕に地面に寝転んだ。
C君「やっと着きましたね。長かったっす。」
俺「きつかった…。ここ…3700Mの標高なのに、めちゃくちゃ空気が濃く感じる…」
こうして俺は、憧れの地ラサに、やっとの思いで辿り着いた。
そしてこの後、ラサでまた、俺の旅が奇妙な運命に導かれて進んでいく。
rainmanになるちょっと前の話。13
どの町間の移動が一番過酷だったか?と聞かれたら、間違いなく俺は今回の「ゴルムド→ラサ間」の31時間に及ぶバス移動だと答えるだろう。
大げさじゃなく、死ぬかと思うような移動だった。
俺とC君は、疲労と高山病でフラフラになりながら、なんとかゲストハウスにチェックインし、その日はひたすら眠った。
次の日、後から来る3人のために泊まっているホテルの場所をメールした。
やっと彼らのことを考えられる余裕もできてきた。
ラサの街は、想像以上に美しかった。
ポタラ宮殿を遠くから見かけたときは鳥肌がたった。
ポタラ宮殿は、中に入って観光できるらしい。「体調が戻ったら絶対いってやるぞ」と思った。
ラサでの生活は、高山病の症状もあってか、いつも浮ついた気分だった。憧れていた町にいるので気分が浮ついているというのもあったかもしれない。
空気が薄くて、走ればすぐに息は切れるし、酒を飲んでもすぐに酔っ払った。
なんとか標高に体が慣れてきて、高山病の症状も和らいできた頃、ついに残りの3人が到着した。
ホテルに入ってきた彼らを迎えたときは、少し涙がでそうになった。
彼らは案の定、疲労困憊の様子だったが、顔つきは自信にあふれていた。闇バス移動をやり遂げたという達成感が、そうさせたのだと思う。
その日の晩は勿論彼らが主役。
闇バス移動の過酷な旅を、面白おかしく聞かせてくれた。
ホテルを移る際、壁をよじ登って抜け出したこと。
ホテルの壁を越えるとワンさんの用意した車が待っていて、乗り込んだ瞬間に、車の屋根に「TAXI」という看板をつけて出発したこと。
最初のチェックポストにバスが来るまで、粗末な山小屋で何時間も待機させられ、ばれないようにと外に用を足しに行くことも制限させられたこと。
チェックポストの先まで、荒野をひたすら重い荷物を持って全力疾走させられたこと。
2個目のチェックポスト以降は、公安が見に来たら「寝たふりをしろ」とワンさんにアドバイスされたこと(笑)。
移動時間は俺らを上回る35時間だったこと。
などなど。
無事に到着したからこそ言える武勇伝を、彼らは誇り気に話した。
俺も「くーー、そんな面白い体験を!」とちょっと悔しがりながら、彼らの話を楽しく聞いた。
とにかくこうやってまたラサで5人無事に揃ったのが嬉しかった。
一通り移動の話で盛りあっがた後、突然K君が「ところで、鳥葬見に行かない?」と言い出した。
鳥葬というのは、チベット仏教に古くから伝わる、人が死んだ後にする葬儀の一つで、ご遺体を鳥に食べさせて葬る儀式だ。
チベットでは酸素が薄いため火を燃やすということが困難であり、また土に埋めるにも、チベットの土は硬く荒れ果てていて死体を腐らせることも困難であるため、この方法での葬儀が一般的に行われていた。
今現在はどうなっているのか詳しく知らないけど、2000年当時は、「鳥葬ツアー」などと称して旅行者を寺に連れて行き、ある程度のお布施をすればその儀式が生で見ることができた。
「死体が鳥に食べられるのなんて見たくねーよ」と、嫌がるものは、当然のように俺ら5人の中には一人も居なかった。
それどころか、「そんなの見れるチャンスは滅多にない!行こう!どうやったらいけるんだ!」と、みんな盛り上がった。
不謹慎とか、そういうことのまえに、我々貧乏旅行者というものは好奇心の塊でできあがっているのだ。
そうじゃなきゃ、こんな過酷な旅を好き好んでやったりしない。この星の上で起きてることを何でも見てやろう!という気持ちでしかないのだ。
Nさんが「メールで知ったんですけど、麗江で会った旅人の一人が、今ラサに来ているらしいから、明日彼の泊まっているホテルに行って、鳥葬のことも詳しく聞いてみましょう。彼ならきっとなにか知ってるはずです」と言った。
俺らも麗江で一緒に遊んだことのある旅人だったので、「いいねー!じゃあ明日さっそくそのホテルに行きましょう!」ということになった。
次の日。
俺らはさっそく麗江で会った旅人が泊っているというホテルに5人でやってきた。
そのホテルはラサの中でも日本人に人気のあるホテルのようで、たくさん日本人旅行者が滞在していた。
中庭があって、その周りをコの字に建物が囲んでいる立派なゲストハウスだった。
俺はちょっと建物の中を散策してみようと上のほうまで登ってウロウロしていた。どの部屋からも中庭が見下ろせるし、屋上に行けば「ジョカン」というラサで有名なお寺も見えるし、人気があるのがわかる立地だった。
その時、Nさんが中庭から上を見上げて俺を呼んだ。
「大輔さーーん!ちょっと!」
俺はテラスから中庭を見下ろした。
Nさんは麗江で会ったその旅人と無事に再会を果したようだ。
しかし、よく見るとその旅人の横にもう一人女性がいる。民族衣装を着ているようで、俺はチベット人かなと思った。
俺「Nさん!どうしましたか?」
Nさん「大輔さん!キーボード見つかりましたーーーー!!」
(キーボード?)
俺「え?どういうことですか?!」
Nさん「バンドの新メンバーですよ!とりあえず中庭まで下りて来てくださーい!」
なんのことやらと思いながら下に下りた。
Nさんが、さきほど上から見えた民族衣装の女性を俺の前に連れてきた。「Oさんです!」
ニコっと笑って、そのOさんという女性は頭をさげた。近くで見たらどうやら日本人のようだ。
「え?どういうことですか?」と俺は、まだわけがわからなかった。
「いや、大輔さん中国移動の旅でよく言ってたじゃないですか!俺のギターだけだと音が薄いからピアノ弾ける人でもほしいって!彼(麗江で会った旅人)が、俺らがバンド組んだの知ってて、それで彼女を紹介してくれたんですよ!ピアノ弾ける人このホテルにいるよって!」
Nさんは、興奮してるのか、めちゃくちゃ満面の笑みだった。
「あ、そ、そうですか…。はじめまして大輔といいます…」と、俺はその彼女に挨拶をした。
ひさびさに日本人女性と話したということもあり変な緊張をしてしまった。Nさんの興奮も少しわかる気がした。
「あの…キーボード弾けるの?」
「うん。キーボードがあればね(笑)」
「あ!そうだよね。。普通キーボード持って旅してないよね(笑)」
そんな会話をした。
Oちゃんは、このホテルに滞在してる日本人の中でも一番の古株で、チベットのことにとても詳しかった。
またしっかりとチベット仏教を理解していて、チベット人の考え方や生き方を愛していて、それ故チベット民族の服装をしているのだった。
俺ら5人の誰よりも、旅に出ている期間が長く、もうすぐ1年を迎えると言っていた。
歳は俺よりも1つ下だったけど、長く旅をしているせいかとても落ち着いて見えた。
俺は改めて話をした。
「俺らは、これからネパールに入るんだけど、ネパールのポカラでライブをしようと思ってるんだ。もしよかったらその時一緒にやってくれない?」
Oちゃんは「どんな音楽?」と聞いてきた。
確かにそうだ。いきなりライブやろうって言われても困っちゃうよな、と思い、
「もし、今日これから時間あるなら、俺らの泊ってるゲストハウス来ない?そこで聞かせるよ」と言った。
Oちゃんは「うん、いいよ」と答えた。
俺らは、どきどきしながらOちゃんを連れてゲストハウスに戻った。
そして、中国での移動で練習してきた曲を演奏することになった。
練習はたくさんしてきたが、みんなで人前で演奏するのはこれが初めてだった。
俺がギターを弾き、Nさんが歌う。
C君とTが二人でブルースハープ。
K君はにやにやしながら隣で聞いていた。
たった一人の前で演奏するだけなのに、俺らはガチガチに緊張していてまったく練習どおりにはいかなかった。
なんとか1曲歌い終わって、はぁ…とため息をついた。
こんな状態で「ライブをする」なんてよく言えたものだ。
「こ、こんな感じなんだけど…」と、俺は照れ隠しもあり苦笑いしながらOちゃんを見た。
Oちゃんは真剣は顔をしていた。
そして、静かに笑ってこう言った。
「いい曲だね。私もバンドのメンバーにいれてくれますか」
rainmanになるちょっと前の話。14
ラサでの突然の出会いから、「THE JETLAG BAND!!!」のキーボード奏者が見つかった。
しかも女の子である。
国内でプロを目指し活動してるバンドなら、まず演奏能力をみたりしてメンバー加入を決めたりすることが多いだろう。
しかし、俺らは一人旅の旅行者が各自旅を続けながら活動する特殊なバンド形態。
そして全員が音楽を始めたばかりの素人なので、「気が合うこと」という条件が合えばそれでメンバーになってしまうのである。
中学の頃、友達同士でバンドをやろう!と話し、じゃんけん等でパートを決め、その後楽器を買う…という懐かしくも微笑ましいあの頃のバンド形態そのものなのだ。
俺らにとって、旅の間の、「暇つぶし」で始めた「遊び」としては、とても刺激的なメンバー加入だった。
そして、俺がひとつ今回の件で嬉しかったことは、NさんもC君もTも、いままでの中国の旅で「バンドを組んでネパールでライブをしよう!」という俺の問いかけに、乗り気ではあったが明確な返事はしていなかった。
しかし、Oちゃんの前で演奏することによって、「聞いてくれる人の前で演奏する」ことの「楽しさ」を感じてくれ、さらに上手く演奏できなかったことへの「もどかしさや悔しさ」を感じてくれたことだった。
Oちゃんの加入によって、俺ら自体が、「バンドを組んでライブをするんだ」ってことへの明確な意思表示が出たように感じた。
その後Oちゃんと話していくうちに、俺らはベトナムのニャチャンという町で一瞬すれ違っていることも判明した。
すれ違っているといっても、話したことはなかった。
当時、一緒に行動していた俺とS君が、夜にたまたま立ち寄ろうとしたビアホイ屋があったのだけど、中には日本人客がいっぱいだった。
店の人は「席を作るから」と勧めてくれたのだけど、俺らは「他の店に行くよ!」と入らずに出て行ってしまったのだ。その時店の中で飲んでいた日本人客の中の一人がOちゃんだったらしい。入らずに帰った俺らのことを覚えていてくれたのだ。
その時店に入っていれば違う話になっていたかもしれないね…なんて話した。
こうしてめでたくキーボード奏者が見つかったのだけど、ひとつだけ問題があった。
キーボードが無いのである(笑)。
俺らは早速、Oちゃんと共に、ラサの町に楽器屋を求めて繰り出すことになる。
ポタラ宮殿に行くよりも先に楽器屋を探すことを優先してしまうという、「ラサにまで来て、ほんと何やってんだ」と笑われそうだが、俺らにとってはそれが大事だったのだ。
人に尋ねながら町をさまよい歩くと、ついに楽器屋は見つかった。
聞いたことの無いメーカーのキーボードが3種類くらい置いてあった。
どれもオモチャに毛が生えたような代物だったが、Oちゃんの希望で、最も広いオクターブが出るキーボードを購入した。少し値段が張ったので、みんなで少しずつ中国元を出し合った。
バスの移動費はケチって闇バス組織と交渉したりするのに、こういう時はみんな気前がいいのである(笑)
よっしゃ!宿に戻ってみんなで音を出してみよう!と、俺らは意気揚々とホテルに戻った。
ホテルの部屋に入り、俺が簡単に歌詞にコードをつけた紙をOちゃんに渡し、カウントを数えて全員で音を出した。
その時、Oちゃんが「あれ?」と言った。
「どうしたの?」と聞いたら、「音が出ない。いや、出るんだけど、和音が出ない。」と言ったのだ。
まさか?と思い、俺もそのキーボードを触ってみた。
ほんとだ…和音が出ない。。。。
たとえばCというコードなら「ドとミとソ」を押さえるのだけど、同時に3つ押さえると、その中のたまたま最初に感知する一つの音しかでないのだ!
3オクターブくらいある長い鍵盤なのに、まさか単音しか出ないなんて!!
俺らはお互いの顔を見合わせた。
そしてOちゃんが吹き出し、みんなもつられて笑った。
言っちゃ悪いけど、さすが中国クオリティという話だ。笑うしかないのだ。
当たり前に和音が出るものだと決め付け、しっかり確かめもせずに買ってしまった俺らも悪い。
勉強費用だと思うしかなかった。
しかし、俺らもそれくらいのことで諦めたりしなかった。
「よし、明日からまたキーボードを探そう。きっと和音が出るキーボードも売ってるよ。」という話になった。
旅人は、切り替えだけは早いのだ(笑)
その日の夜は、新メンバー歓迎を祝してみんなで飲んだ。
Oちゃんは、ラサに長く滞在しているだけあり、美味しい店を知っていた。
酢豚やら、小籠包やら、みんな好きなものを頼んだ。
過酷な中国の旅での中で、一番の救いは、やはり「食」の豊かさである。何千年の歴史かはわからないけど、とにかく飯がうまい。脂っこくてキツイという旅行者もいたが、20代の俺らには、活力の源だった。
Oちゃんを含めた俺ら6人のほかに、Oちゃんを紹介してくれた旅人と、そしてもう一人「Mさん」という旅人も、その席に参加していた。
Mさんも、実は麗江の同じゲストハウスで一緒にすごした旅人の一人だった。
俺らよりも早くチベットを目指し麗江を出発したのだが、ここラサで再会を果たしのだ。
MさんはOちゃんの泊っているゲストハウスに泊っているということもあり、Oちゃんとも仲が良かった。
Mさんはこのとき唯一の30代。Nさんよりも歳が上で、俺らの中では、Nさんが「兄貴」、Mさんが「大兄貴」というような存在だった。
とは言っても、兄貴風を吹して威張るような人ではなく、物腰の柔らかい紳士で、俺らのことを「若さっていいよなー」と微笑ましく観察しているようなタイプだった。
「Mさん、なんでまだラサにいるんですか?ずいぶん前に麗江を出たから、もうとっくに南に下ってるのかと思ってましたよ」とNさんが言うと、「いやー、実はパスポートを無くしてしまって…」と、Mさんは言った。
「えーー!大丈夫なんですか!」とみんなが驚くと、「いやいや、もう見つかったんだよ」と言う。
「でもね、ちょっと見つかるまでが面白くてね…」と、Mさんが話し出した。
ラサに来てまもなく、Mさんはパスポートが無くなっている事に気付いたらしい。
焦りまくって、四方八方を探し回ったが、見つからなかった。困っていると一人のチベット人が「よく当たる占い師がいるから、その人に相談してみたらいい」と言ったそうだ。
その占い師のところにMさんは行った。
そこで占い師に、「なにもせずにもう少しこの町に滞在すれば、パスポートは戻ってくるだろう」と言われたらしいのだ。
Mさんは、勿論半信半疑だったが、パスポートが無いと動けないのでしばらくラサで生活をしていたらしい。
そうしたら、ある旅行代理店のスタッフが「このパスポート、君のだろ?」と差し出したのだそうだ。
「まじ!?すげーその占い師!」とTが言った。
みんなも「神の住む町チベットらしい話だ!」と、笑った。
Mさんのそのエピソードもあり、この夜の宴はさらに盛り上がり、俺らも友情を深めていった。
そして、話は鳥葬の話になる。
俺らが「絶対に見てみたい!」と思っていた、あの「鳥葬」だ。
MさんやOちゃんは既に鳥葬を見に行っていて、鳥葬ツアーについて詳しく知っていた。
俺らは真剣に情報収集をした。
そして、「やっぱり鳥葬見ないとここまで来た意味ないっしょ!」となり、早速、鳥葬ツアーのための、ドライバーを探すことになる。
先輩ラサ住人のアドバイスのもと、俺らは無事に鳥葬ツアーに出かけられるようになった。
次は、その時の「鳥葬」の話でも書きたいと思う。
rainmanになるちょっと前の話。15
「鳥葬ツアー行きませんか?メンバー募集」という紙が、ラサ内のゲストハウスの掲示板にはよく貼ってあった。
鳥葬は、ラサから半日ほど移動した山の奥にあるティグンティ寺という場所で行われる。
そこまではバス等は出ていないので、ランドクルーザーをチャーターしていくしかない。
しかしドライバー付きのランクルを借りるのは高い。
そこで5〜6人でランクルをシェアしてなるべく費用をかけずに見に行くというやり方が個人旅行者には主流だった。
俺らが鳥葬ツアー用に手配したランクルは、運転手以外に6人乗れた。つまり、俺ら5人以外にもう一人乗せることができるのだ。
なるべく最大人数で行ったほうが安いということもあり、同じゲストハウスに滞在していた◎◎さんという女性を誘ってみた。
◎◎さんは女性一人で旅をしているバックパッカーで、俺らと同じくゴルムドからラサまでの、あの過酷なバス移動をしてきたツワモノだった。しかも、正規料金ではなく闇バスで来たらしい。公安に見つからないように、チェックポストではバスのトランクの中に隠れたと言っていた。なかなか凄い体験である。
◎◎さんは「鳥葬、行ってみたかったの」と、俺らのツアーに同行するのを快く承諾してくれた。
旅をしていて驚くのは、意外と「一人旅の女性と遭遇することが多い」ということだ。しかも長期旅行者が多い。
男と比べてはるかにリスクは高いはずなのに、彼女らは男顔負けのハードな旅をしているのである。
案外、男のほうが気が小さくて、女性のほうが度胸があるんじゃないかと思う。
女性バックパッカーは現地人が近寄るスケベ心を逆に手玉に取ったりして、自由奔放に旅を楽しんでいるように見える。
Oちゃんもそうだけど、◎◎さんもそんな女性バックパッカーの一人だった。
俺ら6人は、1泊2日の鳥葬ツアーを組んだ。
「朝出発し、昼過ぎにティグンティ寺に到着。その晩は寺で泊り、次の日の朝鳥葬を見て、夕方にはラサに戻る。」というコースだ。
ランクルの運転手は気のいいチベット人のお父ちゃんで、フレンドリーに俺らの希望を聞いてくれた。
ティグンティ寺への道のりは、思った以上に過酷だった。
途中までは市バス等も走っている道を進んでいくのだが、しばらくすると突然「道が無くなる」のだ。
ランクルでも進むのがやっと…というような、乾いた砂と岩のデコボコ道を少しずつ進んでいく。
まったく車が走った形跡のない荒野を、ガクンガクン跳ねながら走るのだ。
時には、激しい流れの川を横切って行くことも合った。橋があるのかな?なんて思いながら座席から外を見ていると、突然川の中に車が入っていくのでびっくりする。
車体が3分の1くらい水に沈みながら進んでいくのだ。
しかも、山に向かっているのでラサからまたどんどん標高が上がっていく。
すでに4000Mくらいになっていた。
日が沈みかけた頃、やっとティグンティ寺が見えてきた。
大きな山の崖側に張り付いたように建っている寺だった。意外と大きいしっかりとした建物だ。
寺には何人かの僧侶がいて、俺らが着くのが見えると出迎えてくれた。
ここでは一定料のお布施をすれば鳥葬の見学をしてもいいということになっている。しかも宿泊所付きだ。
お金を払うと、さっそく俺らを部屋に案内してくれた。
部屋の扉を開けると、そこから両サイド広がる大きな広間が見えた。壁に張り付いた形で、右側に6個、左側に6個ベッドがならんでいる。かなりの大部屋だ。
俺らはそれぞれ好きなベッドに荷物を降ろした。
そこで不思議なことに気付く。
なぜか入り口の扉から見て右側に並ぶベッドに、6人全員が陣取っているのだ。
広い部屋だし、わざわざ片方に固まらず左右に分かれたらいいのに…。
K君が、「なんでみんなあっち側のベッド使わないの?」と言った。
Nさんが「なんででしょう(笑)なんか足が向かないんですよね」という。
「俺もなんとなくこっちに来ちゃった」とC君。
なぜか6人とも、扉の左側半分に行きたがらないのだ。
少し気味が悪かったが、「まぁお寺だし不思議なこともあるよね…」と俺は無理やり笑った。
あとでわかったんだけど、左隣の部屋は午後に届いたご遺体を次の日の朝まで保管させておく、いわゆる霊安室だった。
日が暮れると、ほんとに真っ暗になった。
蝋燭と懐中電灯の明かりのみで過ごさなければいけない。
古い寺なので、隙間風がすごかった。
標高も高いし、山の上に寺が建っているので、冷たい風がびゅーびゅーいってる。
俺は、正直にいうと、怖かった。
しかし、そんなときに限って、腹が痛くなりトイレに行きたくなる。
トイレは庭を横切った少し遠い場所にある。崖のほうだ。
俺はC君を誘った。
「トイレ行くから、付いて来てくれない?」と。
トイレは、崖から飛び出したように設置されていて、しゃがんで用を足す穴を覗くと、崖の下の建物が小さく見える。
まるで空中で用を足しているような錯覚。旅の中でも一番印象に残っているトイレだ。
一番びっくりしたのは、お尻を拭いたちり紙が、穴の底から吹く風に煽られて目の前まで舞い上がってきた時だ。
「うを!」と声を出してしまい、トイレの外で待ってくれていたC君に「だいじょぶっすか!?」と言われてしまった。なさけない。
そんなこんなで夜を超え、いよいよ朝を迎えた。
電気が無い場所での朝日って、ほんとに有難いんだよね。
俺らは庭に出た。
僧侶が掃除をしていた。
「鳥葬は何時からですか?」と聞いたが、中国語で返事が来たためなんて言ってるのかわからなかった。
しきりに首を振っている。
俺らは、しょうがないので、鳥葬が行われる丘まで自分達だけで歩いていくことにした。
実は、鳥葬をする場所までは、寺からさらに歩いて30分ほど山を越えていかなければならない。標高4400Mの場所にあるのだ。
途中、雪が舞いだした。かなり寒い。
丘が見えて、「ここが葬儀の行われる場所だ」ってことはすぐわかった。小屋が一つあり、その前に土俵くらいの大きさのサークルがあり、サークルの中は石畳になっていた。丘には旗がたくさん結ばれていて、ばたばたとはためいていた。
しかし、そこには人が一人もいなかった。
もう日も高くなってきている。こんな時間まで儀式が行われないということは、なにかあったのだろうか?
俺らは再び寺まで戻った。そして年配の僧侶に今度は聞いてみた。そして衝撃の事実が判明する。
なんと、「今日は仏さんが一体も届いていないので、鳥葬式はない」というのだ!
たしかに、いくら式場に来たって、亡くなった方が来なければ葬式はできない。。
俺らは「えーーー!」と驚き、「まじかよー」となった。
亡くなった方がいないのは、大変喜ばしいのだけど。。。
ここでみんなで相談タイム。
「どうする?」
「どうするって、このまま見ないで帰るの?」
「じゃあもう一泊する?」
「えーー、昨日怖くて全然寝れなかったんだよなー。もう一泊かぁ」
「でも、せっかくここまで来て見ないで帰るのはいやだ!」
「でも、明日仏さんが届く保障もないしな」
「もう一泊だけしようよ」
「うーん。。まぁそうしようか」
唯一女性の◎◎さんが、最後まで「宿泊所が怖いから、一人だけでも、もう帰りたい」と言っていたのだが、結局みんなに説得され、しぶしぶもう一泊付き合う形になった。ごめん◎◎さん。
ランクルのドライバーは、かなり値段を吊り上げてきた。「一泊のスケジュールで組んでるからもう一泊は無理だ」と最初は言われた。
たしかに彼にも予定はあるだろう。しかし、俺らが彼の言い値でOK出すと、「わかった。もう一泊だけだ」となんとかOKしてくれた。
そういうわけで、まさかのティグンティ寺もう一泊となったのだ。
しかし、泊まるのはいいが、明日の朝までは暇だった。
俺らは僧侶のおじさんたちと話したり、精進料理を食べさせてもらったり、曲を作ったり、バンドの練習したりして過ごした。
夕方になると、急に寺中が慌しくなった。
崖の下から何台か車が到着した。
そして布に巻かれたご遺体が車から出され、親族だと思われる方達が寺の庭にご遺体を並べた。
全部で4体あった。
その周りと僧侶が囲み、念仏を唱えだした。
俺らはこれが「ポア」の儀式だとすぐにわかった。
あまり詳しくはないんだけど、チベット仏教は、ポアをして魂を成仏させると、ご遺体はただの物体になる。
そうしてから、鳥に食べさせるのだ。
これで明日の朝、鳥葬が見れるのは確実だった。
目の前に、4体のご遺体が転がっているのだ。
そして再びあたりは暗くなった。
俺は前日よりも怖さはなくなった。人間、慣れるものである。
そして遂に朝を迎えた。
昨日よりも、まったく違う朝だった。
僧侶達が忙しそうに動き回っていて、そのうち若い僧侶が俺らの部屋まで来た。
これから儀式を行うから、付いて来いと言っている。
俺らは、僧侶の後を追って、昨日の朝歩いた鳥葬場までの山道を黙々と進んだ。
いよいよだ。
rainmanになるちょっと前の話。16
鳥葬式が行われる丘に辿り着いた。昨日と比べると風も少なく、それほど寒さは感じなかった。
もうすでに、何人かの僧侶と、仏さんの親族らしい人々と、そして布に包まれた仏さんが4体、そこに到着していた。
僧侶達が、石畳のサークルの上に仏さんを並べて、手際よく布を取っていく。
裸の状態の仏さんが、ごろんと石畳に転がった。
親族の方達は、俺らが見ているのを気にも留めずに、時々談笑をしながらそれを見守っていた。
俺はこれからどうなっていくのかとドキドキしていたのだが、僧侶や親族達は意外にも和気藹々とした雰囲気で少し拍子抜けするような感じだった。
前日の夕方に行われた「ポア」という儀式で魂を成仏させた後は、魂の宿っていた肉体そのものは、すでに「ただの鳥のえさ」として見られているようだった。
理屈では俺もわかっていたが、なかなか割り切れずにいた。
とても談笑なんてできない。
大自然の中に転がっている肌色の物体に違和感を感じずにいられなかった。
突然、僧侶が鉈のようなもので、仏さんの肌に切り込みを入れていった。
太ももやお腹、両腕、背中。
肌はパカっと避けて、中から赤い色の肉が見える。血は流れてこない。もう死んでいるのだから当たり前だが。
その時、丘の上の方にある岩が少し動いたように見えた。
俺は隣にいたNさんに「あの岩、今動いたように感じたんですけど」と言った。
Nさんは「まさか、そんなバカな」と言って丘を見た。
その時また、今度ははっきり岩が動いたのが見えた。俺らはその時わかったのだ。
「あれは岩じゃない!鳥だ!!」
丘の上に転々と置かれていたように見えた沢山の岩は、すべてハゲワシだったのだ。俺はぞっとした。
「鳥」という生き物で想像できる大きさを、はるかに超えている。でかすぎるのだ。
親族達が動き出した。
石畳の周りを囲むように並び、外側を向いて、上着を脱ぎ、それをばさばさと振った。丘の上から近寄ろうとしている鳥達を威嚇しているように見えた。
そんな中、仏さんはどんどん切り刻まれていく。
髪の毛もべりっとはがされた。掌や足の裏もスライスするようにはがされた。鳥が食べづらい硬い部分を一つずつ解体しているようだ。
鳴き声が聴こえたので、俺は空を見上げた。
腰が抜けそうになった。
さっきまで青い空が広がっていたのに、いつのまにか何百という鳥の大群が空を旋回しているのだ。
ハゲワシ、ハゲタカ、コンドル、カラス。様々な鳥がいた。しかも、すべての鳥が規格外にでかかった。
異様な光景だった。
僧侶達が合図をして、サークルを囲んでいた親族達が再び元の位置に戻った。準備が整ったようだ。
その瞬間、ついに一匹のハゲワシが丘の上からタタタタタ!と、走って降りてきた。羽で飛ばずに足で走ってくるのが、なんとも言えず怖かった。
そして仏さんの体に噛み付いた。
それを合図にしたように、他のハゲワシ達も丘から一気に駆け下りてきた。そして空からもいっせいに舞い降りてくる。
俺の肉眼からは、もう鳥の羽や背中しか見えなかった。仏さんがどういう状態なのかは確認できない。
奇声をあげながら、鳥達は我先にと餌に食いついている。
すさまじい光景だった。壮絶だ。
俺らは、何も喋らず、動くこともできず、ただただ、数メートル先で行われているその光景をじっと見ていた。
突然、小さな肉片が俺の足元まで飛んできた。
とっさに後ずさりする。
でもなぜか後ろに下がってはいけないような気がして、俺は体勢を立て直し再びもとの位置に立った。
唯一の女性、◎◎さんはさすがに途中から目を覆い座りこんでしまった。
何分くらい経ったろうか、30分以上の気もするが5分くらいかもしれない…、次第に鳥達がまた空に羽ばたいていった。
親族が再びサークルを囲い、残っている鳥達を追い払うように上着をバタバタさせた。
鳥達がさったあとの石畳には、薄ピンク色の骨が転がっていた。
もう人間の形はしていなかった。
僧侶達が今度はハンマーのようなものを持って、それに近づいた。
そして無表情のまま、骨をハンマーで粉々にしていった。
頭蓋骨も見えた。それも、丁寧にハンマーで砕いていく。
しばらくすると、骨がすべてピンク色のミンチ状になった。
また僧侶が親族に合図を出し、親族がサークルを離れた。
そして再び、鳥達が集まりだした。
今度は、先ほどより比較的体の小さい(といっても普通にでかい)ハゲワシが多かったように思えた。
土俵くらいの大きさの石畳のサークルをすべて覆うくらいの大量の鳥が、砕かれた骨を蝕んでいた。
俺らは相変わらず、何も喋れずに、それを見ていた。
数分後、あっという間に骨はなくなった。
鳥達が空に帰っていく。
残ったのは、石畳の間に詰まった小さな肉片だけだった。
最後にカラスがたくさん舞い降りてきた。
そして、憎たらしいほどきれいに、すべての肉片を食べていった。
俺の足元に飛んできた肉片も、カラスが近寄ってきて食べた。
俺は呆然としていた。
さっきまであった4体のご遺体が、ものの数十分で文字通り「無」になってしまったのだ。
僧侶達は手際よく片づけをしている。
親族達も満足そうに頷きながら寺の方に戻っていった。
「すごかったね…」俺はやっと言葉を発した。
Nさんが「想像以上でした」と言った。
K君は口を硬く閉じて、何も無くなった石畳の上を凝視していた。
C君もTも疲れきった様子で座り込んでいた。
◎◎さんは青い顔でずっと黙っている。
「戻りましょうか」とNさんが言い、俺らはフラフラと寺に戻っていった。
頭の中で、いろんな想いがぐるぐるしていた。
輪廻転生。
動物を食べて生きてきたのだから、最後は動物の餌となり役に立とうという考え方。
鳥葬は天葬とも呼ばれていて、肉体を天に運ぶという意味もあるということ。
生きている不思議、死んで行く不思議。
寺に、着いてからもしばらく放心状態で、俺の頭はぐるぐるしていた。
ほんとに見てよかったのか?そんな思いに囚われそうになる。
心の中に、他人の葬式を、自分の興味本位で見たとことへの不謹慎な気持ちも確かにあった。
しかし今更そんなことを言ってもしょうがない。俺は好奇心でもうそれを見てしまったのだ。
見れてよかったと思うことにしよう。そう思った。
そして、このときに感じた、生と死の生々しい感情を忘れないでおこうと決めた。
俺は、目を閉じて顔をあげ、そして空に向かって静かに合掌した。
rainmanになるちょっと前の話。17
鳥葬ツアーから無事にラサに戻ってきた俺らは、ラサの町を思い切り楽しんでいた。
ラサは、空気は薄いけど、慣れてしまうととてもいい気候だった。
日中はカラッとして過ごしやすく、日差しが多少強いけど、空は透き通っていて青かった。
ずっと楽しみにしていた「ポタラ宮」も見に行った。インドへ脱出する前のダライラマが住んでいた王宮、世界遺産だ。
近くまで来て正面から見ると、かっこよすぎてにやけてしまう。大好きな建物だ。
宮殿の中まで見学できるようになっていたので早速入った。中は迷路のようになっていて、たくさんの部屋にたくさんの仏像や曼荼羅があった。
とても楽しめた。
その他に、ジョカンと呼ばれる寺の周りを囲んでいる土産物屋が俺はお気に入りだった。よくTと一緒に「アイテム探し」と称して、様々な土産を買ったものだ。ゆっくり店を見ながらジョカン寺を一周すると、それだけで半日くらいすぐに経った。
チベットはシルバーが豊富で、シルバーの指輪やブレスレット、またお香入れやお香立て、そしてマニ車や仏像までなんでもあり、俺らは値段交渉しながらそれらを買いあさった。マニ車っていうのは、円筒に棒がささったようになってるもので、棒を上手く振ると円筒がくるくる回る。円筒の中にはロール状の経文が入っているんだけど、1周マニ車を回せば一回お経と唱えたことになる!という便利なアイテムなのだ。ちょっとずるい気もするが(笑)
ラサの人々は片手にマニ車を持って、くるくる回しながら歩いてる人も多かった。
そうそう、忘れてはいけないのは、Oちゃんに弾いてもらう「キーボード」を探す件である。
なんと俺らがラサを出る直前に、売っている店が見つかったのだ!
今度はちゃんと複数音が出るか確かめた。
無事に購入でき、めでたくOちゃんはキーボーディストとして「THE JETLAG BAND!!!」に加入したのである。
そして俺らがラサを出る日がやってきた。
Oちゃんは、もう少しラサに残るというので、「ではネパールで再会しよう!」ということになった。
「コードを書いた歌詞ノート」も渡した。再会する時まで自己練習してもらうためだ。
Oちゃんは「ネパールも楽しくなりそう」と言ってノートを受け取った。握手をして別れた。
俺らは、ラサを離れ、バスで「シガツェ」というチベット第2の都市まで向かった。
チベット圏からネパールに入るには、ランクルを調達してツアーを組まなければいけない。
しかし、ラサではネパール国境まで直接行ってくれるランクルドライバーを見つけることができなかった。
そこで、ラサの南西にある「シガツェ」でドライバーを探すことにしたのだ。
チベットはヒマラヤ山脈に囲まれているため、中国から入るときと同じように、ネパールに抜けるときもまたヒマラヤ(今度は逆側)を越えなければならない。
山のプロK君が言うには、「シガツェ→ネパール国境」間は1000キロくらいの移動距離で、20時間くらいで着くらしい。標高も、高いところでも5000Mは超えないらしい。途中に湖周辺やエベレストベースキャンプ(ABC)を通過するからゴルムド・ラサ間よりも楽しいと思うよ、と言っている。
「移動時間は20時間で済む」とか、「標高5000M以内だから大丈夫」とか、日本にいたら考えられない会話だが、中国・チベットで過酷な移動を続けていくうちに、そのへんの感覚が麻痺してしまっていて、K君の話を聞いた俺らも「へー、それなら大したことないね」とか言ってしまっている。ほんとに、慣れというのは恐ろしいものである。
しかし、こういう感覚は、この後のネパール・インドでの移動でとても役に立つことになる。ネパール・インドでの10時間程度の移動は、「お!近いね!」というレベルなのだ。10時間の移動を「近い!」と思うようになれば、もう立派な長期旅行者である。
無事にシガツェに着き、さっそくランクルのドライバーを探した。
2000年当時は、闇ランクルのようなものもあり、パーミット(通行証)を持たないままネパールに抜けるツアーを組むドライバーも存在していた。
当然のように俺らはその闇ランクルドライバーを探した。安く行けそうだったからだ。
なかなかシガツェから一気にネパール国境に隣接している町「ダム」まで直行で行ってくれるドライバーはいなかった。
ゴルムドでそうしたように、俺ら5人はシガツェでも町中を歩き回り、ランクルドライバーを探した。
しかしやはり見つからない。仕方ないので、政府の管理するツーリストオフィスまで行き値段交渉をしようということになった。
門番がいるような立派な門を潜り、俺らは中に入った。そこでは高圧的な公安が、パーミットの確認や破格に高いツアー料金を提示したりしてきた。
なかなか話はまとまらなかった。
俺らは、うなだれながら泊っているホテルに戻ってきた。
しばらくすると、ホテルの部屋の窓から、自転車に乗ったチベット人のおじさんが近づいてくるのが見えた。
自転車に乗ったおじさんは、俺らの部屋の窓の側まで来て手を招いている。なんだ?と思って、俺らは窓に近づいた。
その時、俺は思った。「あれ?あの人どっかで見たことあるような…」
Nさんが「あ!!あいつ、さっきのツーリストオフィスの門番ですよ!」と言ったのだ。
みんなも「あ!!そうだ!!」と声を出した。
門番が何の用なんだ!と俺らは外に出た。
すると、おじさんは真剣な顔をし、早口で俺らに問いかけた。
「◎◎元で、ネパール国境まで行けるけどどうする?」
最初、なにを言ってるのか意味がわからなかった。
しかし、話していくうちにそれが値段交渉だということに気付いた。
つまりなんと、政府の機関の建物の門番が、闇ランクルのドライバーだったのだ(笑)
昼間は政府のために働く門番、しかし裏の顔は闇ランクルで旅人を運ぶ仕事人ということか!
俺らはびっくりするというより、このヘンテコな展開に笑ってしまった。
そして俺らは、その門番のおじさんにネパールまで運んでもらうことを決めた。
移動は、バスでの移動と比べとても快適だった。
乗っているのが俺ら5人の身内だけなので、トイレ休憩やご飯休憩も自由にできるのがありがたかった。
湖や、エベレストベースキャンプを超え、ランクルは進んでいく。
この移動で見た景色が、また最高に素晴らしかった。この世のものとは思えない世界が目の前に広がっていた。
俺は今まで、この星には人間が入り込んだことの無い場所などもう残っていないのだろうな…と思っていた。
しかし、違う。
この星には人間が立ち寄ることの出来ない場所がまだまだたくさんある。
それはヒマラヤの人々からすれば「神の領域」ということになるのだろう。
俺らはその神の領域の風を感じながら、ネパールを目指した。
そして、約丸1日の移動の末、俺らは中国・ネパール国境に到着した。
ついに長かった中国(チベット自治区も中国内)の旅が終わる。
本当に本当に、中国を超えるのは長かった。
でも、忘れられない体験もたくさん出来た。
俺にとって、この旅、2度目となる中国は「悪くなかった」。
「圧勝」は出来なかったが、「完敗」ではない。「引き分け」というところか。
それもこれも、頼もしいチベット越え仲間、Nさん、C君、K君、Tの4人がいてくれたのが非常に大きい。
出会いに感謝した。
そしていよいよ、待ちに待ったネパールに入国だ。
本当にネパールでライブが出来るのか?!俺の心は高鳴っていた。
しかし、そう易々とは俺の旅は進まないらしい…。
この後も、さらに奇妙な運命のうねりに飲み込まれていくことになるのだった。
rainmanになるちょっと前の話。18
中国を出国して安堵したのもつかの間、ネパール入国はとんでもなく大変だった。
山道を登りながらネパールのイミグレーション(入国管理局)を目指すのだが、突然道が無くなり、崖が広がったのだ。どこかに回り道があるのかと辺りを見ても、あるのは目の前の崖だけだった。
そして崖の下を見下ろすと、ネパールのイミグレの屋根が小さく見える。
途方にくれていると、後ろからやってきた現地人が俺らを追い越し当たり前のようにその崖を降りていった。
「なるほど、そういうことね。」と俺らはため息を付く。
つまり、この崖を自力で降りて、ネパールに入国しろということなのだ。(※ちなみに現在は橋がかかっているらしい)
両手で岩に捕まりながらゆっくり降りなければいけないような険しい崖なのだが、俺の両手は塞がっていた。
右手にギター。そして左手に、和音の出ない例のキーボードを持っていた。
キーボードはラサに捨ててこようかと迷ったのだが、なぜか愛着が出てしまって持ってきたのだ。
俺は、旅に関係ないものばかり持ち歩いてしまう癖があり、バックパックの中も、中国で買ったマージャン牌や神様の置物各種。スピーカーや、海賊版CD&カセット各種(当時はi-podなんてないのだ)でいっぱいになり、とにかく荷物が多かった。
しかし、崖を降りない限りネパールに入国できない。NさんやK君に楽器を持ってもらいながら何とか進み、やっとの思いでネパールインした。
その日はもう遅かったので、ネパール国境の町「コダリ」で一泊することに。
俺らは、無事にネパールに入国できたことを祝しその夜は大いに食べて飲んだ。チベットでは精進料理のようなものばかりだったので、ネパールカレーやモモが本当にありがたかった。
次の日、朝早く起きてチケットを手配し、カトマンズ行きのバスに乗りこんだ。
たくさんの乗客にまぎれて、なんとか席に座ったのだが、とっさに窓際に置いた俺の小バッグが、一瞬の間に消えた!
「あ!!!」と思った時にはもう遅い。
バスの外側から、開いていた窓に手を伸ばされ、バッグを盗まれたのだ!
窓から顔を出してみると、俺のバッグを持った男が遥か向こうへ走っていくのが見えた。
「やられた!!」
すぐにバスを降りようとしたのだが、次々と乗車してくる客に逆流することになるので上手く進まない。
やっとバスを降りた時には、男の姿などまったく見えなかった。
俺は大きなため息をついた。
旅に出て半年以上が過ぎていた。旅に慣れた心に「甘さ」が出てしまったのだろう。
「荷物を体から離す」という、アジアの旅でやってはいけない初歩的なミスを犯してしまった。
同行する旅仲間も増えて、待ち焦がれたネパールに来たということで、少し浮かれすぎていたのかもしれない。
盗んだ男を恨む前に、俺は自分の旅人としての甘さに反省していた。
アジア舐めんなよ!ってことなのだ。
甘さが出たとき、「旅」というものは、いつもちょっぴり痛くそれを教えてくれる。
俺は、もう一度しっかり身を引き締めなくちゃ…と思った。
バッグの中には、カメラやフィルム、そしてここまでの旅で出会った人のプロフィールや連絡先を書いた「出会い帳」なんかも入っていた。
お金やカメラはいくらでも渡すから、とにかく「出会い帳」だけは返してくれよ!という気持ちだった。
盗んだ男にとって、俺が旅で出会った人の連絡先などまったく必要のないものなのだから…。
旅での「宝物」のひとつである「出会いの軌跡」を俺は無くしてしまい、それが一番ショックだった。
しかし、なぜかいつもそのバッグに入れてあった、いままで書き留めた曲の「歌詞ノート」だけは、たまたま外に出してあり、手元に残った。
Nさんがそれを見て、「唄を唄えってことじゃないですか?」と言った。
なんだかその言葉を聞いて、すこし心が軽くなった。
「まだ『唄』が残ってる」と。
バスは、何事も無かったように、走り出した。
夜が更けた頃、俺らは無事にカトマンズに到着した。
俺はカトマンズには過去に何度か訪れていたので、みんなをバスターミナルから安宿街まで案内した。
「タメル」と呼ばれる地区が、旅人にとっては拠点となる安宿街だった。
タイのカオサンと少し雰囲気が似ているが、タメルのほうがもう少し規模が大きく、にぎやかで混沌としている。
活気があって大好きな場所だ。
それこそ何百という宿があるので、夜も遅いし俺らはとりあえず適当なゲストハウスにチェックインした。
なぜか俺らは全員腹を壊しており(たぶんネパール入国後に暴食したのが原因?)、その晩は静かに寝た。
次の日、俺はネットカフェに行き「THE JETLAG BAND!!!」のメンバー「ラオスで別れたS君」と「チベットで別れたOちゃん」に「無事にネパールインできたよ!」ということをメールした。
「雲南省で別れたBOSS」にも、「よかったらネパールに遊びに来てね」と送った。
ついでに今までメール交換した旅人達にも「ネパールでライブやるので、暇ならネパール来てよー」と送信。
インディースバンドではよく近くに住んでる人にメールでライブ告知等をするが、国をまたいで誘ってしまうのが長期旅行者らしいところ(笑)。しかも、意外とみんな暇なようで、各国から「ネパール目指すよー」なんて答えが多かった。
その後、俺らは腹痛と戦いながらも、楽しくカトマンズでの生活を送った。
屋上に登れるゲストハウスに移動し、昼間はみんなで屋上にあがり、バンドの練習をした。
中国移動の間ずっと練習してきたので、まだ楽器を触って一ヶ月とは思えないほどC君やTは、ブルースハープが上達していた。
そして、Nさんも、ここカトマンズでついに「ネパール太鼓」を買い、パーカッションを叩きながら唄うことに…!Nさんの太鼓は、まだまだ下手だったけど(笑)、練習する時間はたっぷりある。
K君は相変わらずマイペースに、絵を描いたり山の地図を見たりしていたが、いつも俺らの演奏するそばにいて聞いてくれた。
俺らは、カトマンズの町を屋上から見下ろしながら、練習を続けた。
そして、ある日の昼下がり、ゲストハウスを出て5人で飯を食いに行こうとしたら、路地の向こうから見覚えのある顔が、大きな荷物を背負って歩いてきた。
巻きスカートにサンダル、髪の毛はボサボサで、随分とヒッピーオーラが増してはいたが、笑顔は一緒だった。
S君である。
俺らは、お互い目が合い、「おーーーー!!!!」と言って近寄り、がっちりと抱き合った。
「来たね!」「来たよ!」
「あれから俺、約束どおりバンドのメンバー増やしたんだ!これがメンバーだよ」とみんなを紹介した。
「おー!Nさん久々!Tも一緒なんだ!」とS君。この二人とS君は東南アジアで会っている。
K君とC君とも、気が合いそうだ。すぐに仲良くなるだろう。
S君は、俺とヴァンビエンで別れた後、ミャンマーとバングラディッシュと北インドを旅してネパールインしたという。
S君と無事に会えたことが嬉しかった。
あの日、ヴァンビエンで、俺が思いつきでS君に語った「ネパールでライブやりたい。S君ネパールで待ち合わせしよう。俺はそれまでバンドメンバー揃えておく」という言葉が、現実になりつつあった。
S君との再会で、THE JETLAG BAND!!!の勢いは、ここカトマンズで急速に増していくことになるのだった。
rainmanになるちょっと前の話。19
ネパールの首都カトマンズでの生活は心地よかった。
S君の合流で、ゲストハウス屋上でのバンド練習にも刺激が加わり、みんな下手くそだったけど真剣に取り組んでいた。
何かを覚えたり習ったりする時、「旅」ほど最適なものはないのでは?と思う。
旅の間は、「やらなければいけない事」っていうのがないので、やりたいことだけを好きなだけやれる。お腹が減れば飯を食いにいって、眠かったら寝る。それ以外は好きなことだけに時間を使えるのだ。
そういう生活の中で、好きで孤独になり、好きで過酷な移動をする。本当に旅は「贅沢な遊び」の一つだなと、つくづく思う。
S君の合流の数日後、ついにOちゃんがチベットからネパールにやってきた。
重いキーボードを持って、あの崖を渡り、国境を越えてきたのだ。
俺ら男の子たちはみんな、紅一点のOちゃんの合流を心から祝し歓迎した。女の子が一人加わるだけでこうも違うのか!?とびっくりする程、メンバーみんなの生活に潤いが出たように思えた。女子はやはり偉大である。
これで、俺がここまでの旅で声をかけたバンドのメンバーは、カトマンズでついに全員揃ったことになった。
俺はこの「マンガのような展開」にニヤニヤしつつも、胸が熱くなっていた。
約7ヶ月前、日本を出国したばかり頃は、まさかこんなことになるなんて思ってもいなかった。
思えば、ベトナムでたまたまギターを買ったあの日、なにかが動き出したような気がしたのだ。
各国でギターを通して出会った旅人達が、今こうしてネパールに集結し、俺が作った曲を一緒に演奏してくれている。こんなステキなことってあるだろうか?「出会い」と「音楽」が俺を救ってくれたのだ。
そして俺の旅は今、自分でもまったく予想の付かない方向に流れている。
これからどうなるんだろう。本当にライブできるのかな?
そんなことを思いながら日々を過ごした。
「いくところまでいってみるか」そんな気持ちだった。
ある日、一人で夕暮れのタメル地区を歩きながら、シルバーショップにふらっと寄った。
そのショップには、シヴァリンガを象った珍しい指輪が置いてあった。
シヴァリンガというのは、ヒンズーの神様シヴァ神のシンボルで、男性器と女性器の性交をモチーフにした形だ。
実は俺は、「ヒンズー教の神様」オタクなのだ。数多いヒンズーの神々の生い立ちやエピソードを調べたり、町で子供たちが売り歩いている神様ポストカードを集めたりするのが大好きだった。
レアなポストカードがあれば、高値でも迷い無く手に入れる(笑)。
今までの旅で200枚くらいの神様ポストカードをコレクションしていた。
ヒンズー神の中で、特に俺は「シヴァ」という神様のファンだった。
だから、そのシヴァリンガをモチーフにした指輪を見たときは震えるくらい嬉しかった。
早速、店の人と値段交渉したら意外と安かった。しかも在庫が15個くらいあるという。
俺はその時、思い立った。「この指輪をTHE JETLAG BAND!!!の仲間達全員に付けてもらおう!」と。
「沢山買うから、もう少しディスカウントしてよ!」とお願いし、店にあるその指輪をすべて買って帰った。
宿に戻り、早速メンバーに見せると、みんな気に入ったようすで指にはめてくれた。
後々その指輪は「ジェットラグリング」と呼ばれ、仲良くなった旅人達に俺が渡し、少しずつ広まっていく。ちなみにrainmanのメンバーもみんな持っている。
カトマンズでは、他にも「ジェットラグTシャツ」を作ったりした。
ネパールでは、Tシャツにミシンでオリジナルの刺繍をする店が多く、デザインを描いて持っていけばその通りに作ってくれるのだ。みんな各自好きな色で「THE JATLAG BAND!!!」という文字が刺繍されたTシャツを作り、それをライブのときに着る衣装にしようと話した。
演奏の上達よりも、こういう「形から入るバンド活動」に俺は力をいれていた(笑)。
肝心の演奏はというと、全員で合わせてみるとあまり上手くいかず、まだ手ごたえは無かった。でも、「なんとなく楽しい」という感覚で、毎日をやり過ごしていた感じだった。
カトマンズでの生活で、もうひとつ記しておきたいのは、俺の「母親」が日本からやってきた事だ。
俺がしばらく旅から帰ってこないので、いったい息子はフラフラと海外でなにをしているのだ?と思ったらしく、航空券を予約してここカトマンズまでやってきたのだ。
今、俺も子供を持つ親となり、少しはこの時の母親の気持ちがわかるような気もするが、この時の俺はただただ母の行動力にびっくりするばかりだった。
母親は5日間ほどネパールに滞在し、俺の旅での生活に密着し、裏も表もすべて見て、そして帰っていった。
そんなこんなのカトマンズライフを過ごし、そろそろ「ポカラ」にみんなで移動しよう!ということになった。
俺は、ライブはポカラというネパール第二の街でやるつもりでいたのだ。
ポカラには、「ホテルひまり」というゲストハウスを経営してる俺の友達「ラジュー」がいた。
以前の旅でポカラに寄った際、とてもお世話になったネパール人で、その後もちょくちょく日本ネパール間で連絡をとっていたのだ。
ラジューはやり手のホテルオーナーで、日本語も達者だった。
ポカラでライブをすることについて具体的になんの計画もなかったのだが、彼に相談すればライブをやれる場所くらいスムーズに確保できるのでは?と俺は思っていたのだ。
俺らは、ポカラまでのバスのチケットを取り、約6時間の移動の末、ポカラにたどり着いた。
事前に連絡してあったので、バスターミナルまでラジューは迎えに来てくれていた。
ラジューは日本語で「いらっしゃい!!だいちゃんひさしぶり!」と言って握手をしてきた。
俺も「ラジュー、世話になるよ!よろしく!」と手を伸ばした。
ラジューは、「ホテルは全室空けてあるよ。好きにつかってくれていいよ!」と言った。
なんとも頼もしいやつである。
俺らはホテルひまりに移動し、各自好きな部屋をとった。
友達だけで、一つのゲストハウスを占拠できるなんて夢のようだった!
ラジューありがとう!!
こうして、俺らTHE JETLAG BAND!!!の、「ホテルひまり」での摩訶不思議な共同生活が始まったのである。
rainmanになるちょっと前の話。20
ホテルひまりオーナー、ラジューの粋な計らいでゲストハウス全体を占領できることになった我々THE JETLAG BAND!!!。
ホテルひまりは2階建ての屋上つき。玄関を入ると正面に中庭があり、その庭をコの字に囲むように宿舎が建っている。
1階は、ラジュー家族の部屋や食堂などが入っていて、ホテルの客はほとんど2階に滞在する形になる。屋上にも一つ部屋があった。
俺ら7人は各自好きな部屋に陣取った。
俺は前回ひまりに滞在していた時に泊っていた部屋を希望した。
一番広く、日当りのいい「角部屋」である。
みんなが集まることも多いと思うし、一応今回のバンド遊びの発起人でもあるので、みんな俺がそこに陣取ることを了承してくれた。
俺の部屋の左隣の小さな部屋はC君が入ることになった。
C君ルームは2階の一番左端の部屋にあたり、部屋の真下は、ホテルの出入り口でもある受付のある部屋にあたった。
自分の部屋より、俺の部屋にいるほうが長いのでは?と思うくらい、C君は俺の部屋にいた。
帰るのは眠るときくらいだった。
俺の部屋から右側は、庭を囲むように5つ部屋が並んでいる。
すぐ隣はキーボード担当の女の子Oちゃんの部屋になった。
女の子らしく、いつもきれいに使っていた。
その隣は、S君が陣取った。
S君は「オレこの部屋、カフェにするわ」と突然言い出し、毎朝「仕入れ」と称して買出しに行き、お菓子や軽食類、水やお茶やジュース等をまとめ買いするようになる。
最初はみんな「S君いったい何を始めたんだ!?」と物珍しそうに見ていたのだが、後々この「カフェ」がとても便利で役に立つ場所だと痛感させられる。
「ちょっと水が切れちゃったけど外に買いに行くの面倒だなぁ」なんて時や、「小腹が減ったけど深夜だし食堂は閉まってるなぁ」なんて時は、S君カフェに寄れば大体の要望が叶うのだ。勿論値段はカフェマスターのS君に払うのだけど、外で買う値段と変わらない。まとめ買いするので少し安いくらいだ(笑)
このカフェは、日が経つにつれどんどんクオリティがあがり、「LAG TIMERS CAFE」という名前まで出来、看板やメニューなども作られた。
ときどき他のホテルに泊っている旅人なんかもカフェの客になっていた(笑)。
色んな旅人に会ったが、ゲストハウスの自分の部屋を「カフェ」に改造したやつは後にも先にもS君ただ一人だ。こういう柔軟で遊び心のあるやつが俺は好きだった。
S君の部屋の隣は、階段とシャワールームのスペースがありそこが建物のコーナーになっている。
各部屋にシャワーは付いているのだがドミトリー客(共同部屋)用のシャワーがここにあるのだ。
階段を超えて、次の部屋がNさんの部屋だ。
Nさんの部屋のドアには、いつのまにか「N整体研究所」とかかれた札が貼られてあった。
まったくどいつもこいつもホテルの部屋を勝手にいろんなものに改造したがる(笑)
ある日、「Nさん、整体研究所ってなんすか?」と俺が聞くと、「私は昔から『微動術』というマッサージを研究しているのです。是非、体がお疲れの時はご予約いれてください」と言われた。
「微動術??なんすかそれ??あの、いま予約していいっすか?(笑)」
「わかりました。では楽な服装でベッドに横になってください」
何が始まるのだろうと、どきどきしながらNさんの部屋のベッドに仰向けになっていたら、いきなりNさんは俺の両足首をつかみ、そして俺の体をとても細かく揺すってきた。
最初は戸惑ったが、しばらくして慣れてくるとこの細かな揺れが心地よいことに気付く。全身の力が抜けていき、頭がまっしろになった。リラックス効果絶大だ。
俺は気付いたら眠ってしまっていた。起きたらすでに窓の外は暗くなっていて、俺の体には毛布がかけられていた。「あ!すいません。いつのまにか寝てしまって…」と言うと、Nさんは「構いませんよ。お疲れになっているのでしょう。」と言いながら横でお茶を飲んだりしている。
うーむ。。恐るべし微動術!おそるべしNさん…。
「変な部屋ばっか…」とつぶやきながら、カフェを横切り俺は自分の部屋に戻ったのだった。
Nさんの部屋の左隣がTの部屋だ。Tも、C君と同じようにほとんど俺の部屋にいた。
TもC君も、ブルースハープだけでは飽き足らず、ギターも教えてほしいと言い出し、俺は基本的な音の構成やコードの押さえ方なんかを彼らに教えた。
相変わらず二人とも上達は早かった。
Tの部屋を超えた先にある部屋が、2階の一番右端の部屋にあたる。
大部屋になっていて、ベッドが4つほどあり、ドミトリーとして使われていた。
ここにK君が陣取ることになる。
ここはあまり日当りがよくないせいか、K君は、昼間はほとんど、屋上か、S君カフェにいた。
天気がいいと屋上からは大きく連なるヒマラヤの中の「アンナプルナ山脈」が見渡せた。
アンナプルナ山脈の中で一際目立つのが「マチャプチャレ」である。
マチャプチャレの頂上付近はフィッシュテールとも呼ばれ、まるで魚の尻尾のようにとんがっていてかっこいい。
俺は富士山の次に好きな山だった。
俺らは「毎朝10時に食堂に集合し、バンドの練習をしよう」という決まりごとをつくった。
食堂を練習スペースとしてラジューが提供してくれたのだ。
広くて、椅子やテーブルもたくさんあるし、音が響くので練習には最適な場所だった。
午前中精一杯練習をして、午後は各自自由に自分の旅の時間を過ごした。
ポカラの町で旅人が拠点とする場所は、「レイクサイド」と「ダムサイド」の二つに別れる。
レイクサイドは、欧米向けのレストランや土産物屋、ホテル等が多くたくさんの白人さんたちで賑わっていた。
ダムサイドは比較的田舎風景で、小さな食堂やリーズナブルなゲストハウスが多かった。日本人はダムサイドの方が性に合うらしく、多く滞在していた。
ホテルひまりも、ダムサイド側にあった。
ダムサイドもレイクサイドも、大きな湖「フェワ湖」で繋がっている。湖沿いを歩けば30分くらいで行き来できる距離だ。
俺はよく、午後はフェワ湖にボートを浮かべ、ゆらゆら揺れながら過ごした。
マチャプチャレに見下ろされながら、緩やかな午後の日差しで湖の水面がキラキラ光るを眺めるのが、たまらなく好きだった。
ある日、ラジューが俺を呼び止めた。
「だいちゃん、ちょっとレイクサイドまで一緒にいかない?紹介したい友達がいるんだ」
暇だったので俺はその誘いに乗った。ラジューのバイクの後ろに乗りレイクサイドまで向かった。
ラジューは「クラブ アムステルダム」という名のレストランに入っていった。いい名前だ。
レイクサイドの町のど真ん中にある、大きなレストランだった。
店はウッディーな感じで統一されて雰囲気があり、店の奥はテラスになっていて、その向こうにはフェワ湖も見えた。
ラジューはその店のオーナーだという男性を俺に紹介してくれた。ラジューとは幼馴染だという。
「だいちゃん、ライブやりたいって言ってたよね?この店どうかな?と思って」とラジューは言った。
え!ここ?こんな立派な店でやっていいの?!と俺は思った。
「今、オーナーと話したんだけど、ぜんぜん使ってもらって構わないって。アンプやスピーカーも一通りあるし、たまに地元バンドがライブやってるんだよ」とラジューは言う。
オーナーの男性はニコニコしながら頷いている。
俺らにこの店に相応しいほどの演奏ができるかなー?と少し不安もあったが、せっかくのラジューの好意だ。俺は「ありがとう!ぜひやらせてもらうよ!」と言った。
いつにする?というので、練習期間ももらいたかったし約2週間後の週末を押さえた。
というわけで、いきなりライブをする場所と時間が決まってしまった。
ラジューに相談すればなんとかなると思っていたが、まさかここまでスムーズにいくとは。
俺はオーナーと握手をして、店を出た。
ラジューのバイクに乗りホテルまで戻る間、徐々にライブが決まったという実感が沸いてきて緊張した。
その夜、メンバーに「日にちと場所が決まったよ!」と、報告した。
みんな喜んではしゃぐというよりは、「ついに具体的に動き出したか!」と、気合を入れてる感じだった。
次の日の朝練習からは、前日までとは比べ物にならないくらいみんなに集中力があったのは言うまでもない。
練習を終えて、みんなで色々とミーティングをしていると、ラジューが食堂に入ってきた。
そしてラジューは、俺らに思いがけない提案をしてきたのだ。
「みんな!今度の週末、練習がてら、うちの庭でライブやってみない?」
続く