さえないバックパッカーがガンジス川船上ライブをするまでの軌跡 2

rainmanになるちょっと前の話。13


どの町間の移動が一番過酷だったか?と聞かれたら、間違いなく俺は今回の「ゴルムド→ラサ間」の31時間に及ぶバス移動だと答えるだろう。
大げさじゃなく、死ぬかと思うような移動だった。

俺とC君は、疲労と高山病でフラフラになりながら、なんとかゲストハウスにチェックインし、その日はひたすら眠った。

次の日、後から来る3人のために泊まっているホテルの場所をメールした。
やっと彼らのことを考えられる余裕もできてきた。

ラサの街は、想像以上に美しかった。

ポタラ宮殿を遠くから見かけたときは鳥肌がたった。
ポタラ宮殿は、中に入って観光できるらしい。「体調が戻ったら絶対いってやるぞ」と思った。

ラサでの生活は、高山病の症状もあってか、いつも浮ついた気分だった。憧れていた町にいるので気分が浮ついているというのもあったかもしれない。
空気が薄くて、走ればすぐに息は切れるし、酒を飲んでもすぐに酔っ払った。

なんとか標高に体が慣れてきて、高山病の症状も和らいできた頃、ついに残りの3人が到着した。

ホテルに入ってきた彼らを迎えたときは、少し涙がでそうになった。

彼らは案の定、疲労困憊の様子だったが、顔つきは自信にあふれていた。闇バス移動をやり遂げたという達成感が、そうさせたのだと思う。
その日の晩は勿論彼らが主役。
闇バス移動の過酷な旅を、面白おかしく聞かせてくれた。

ホテルを移る際、壁をよじ登って抜け出したこと。
ホテルの壁を越えるとワンさんの用意した車が待っていて、乗り込んだ瞬間に、車の屋根に「TAXI」という看板をつけて出発したこと。
最初のチェックポストにバスが来るまで、粗末な山小屋で何時間も待機させられ、ばれないようにと外に用を足しに行くことも制限させられたこと。
チェックポストの先まで、荒野をひたすら重い荷物を持って全力疾走させられたこと。
2個目のチェックポスト以降は、公安が見に来たら「寝たふりをしろ」とワンさんにアドバイスされたこと(笑)。
移動時間は俺らを上回る35時間だったこと。
などなど。

無事に到着したからこそ言える武勇伝を、彼らは誇り気に話した。
俺も「くーー、そんな面白い体験を!」とちょっと悔しがりながら、彼らの話を楽しく聞いた。
とにかくこうやってまたラサで5人無事に揃ったのが嬉しかった。

一通り移動の話で盛りあっがた後、突然K君が「ところで、鳥葬見に行かない?」と言い出した。

鳥葬というのは、チベット仏教に古くから伝わる、人が死んだ後にする葬儀の一つで、ご遺体を鳥に食べさせて葬る儀式だ。
チベットでは酸素が薄いため火を燃やすということが困難であり、また土に埋めるにも、チベットの土は硬く荒れ果てていて死体を腐らせることも困難であるため、この方法での葬儀が一般的に行われていた。

今現在はどうなっているのか詳しく知らないけど、2000年当時は、「鳥葬ツアー」などと称して旅行者を寺に連れて行き、ある程度のお布施をすればその儀式が生で見ることができた。

「死体が鳥に食べられるのなんて見たくねーよ」と、嫌がるものは、当然のように俺ら5人の中には一人も居なかった。
それどころか、「そんなの見れるチャンスは滅多にない!行こう!どうやったらいけるんだ!」と、みんな盛り上がった。

不謹慎とか、そういうことのまえに、我々貧乏旅行者というものは好奇心の塊でできあがっているのだ。
そうじゃなきゃ、こんな過酷な旅を好き好んでやったりしない。この星の上で起きてることを何でも見てやろう!という気持ちでしかないのだ。

Nさんが「メールで知ったんですけど、麗江で会った旅人の一人が、今ラサに来ているらしいから、明日彼の泊まっているホテルに行って、鳥葬のことも詳しく聞いてみましょう。彼ならきっとなにか知ってるはずです」と言った。
俺らも麗江で一緒に遊んだことのある旅人だったので、「いいねー!じゃあ明日さっそくそのホテルに行きましょう!」ということになった。

次の日。

俺らはさっそく麗江で会った旅人が泊っているというホテルに5人でやってきた。
そのホテルはラサの中でも日本人に人気のあるホテルのようで、たくさん日本人旅行者が滞在していた。
中庭があって、その周りをコの字に建物が囲んでいる立派なゲストハウスだった。
俺はちょっと建物の中を散策してみようと上のほうまで登ってウロウロしていた。どの部屋からも中庭が見下ろせるし、屋上に行けば「ジョカン」というラサで有名なお寺も見えるし、人気があるのがわかる立地だった。

その時、Nさんが中庭から上を見上げて俺を呼んだ。
「大輔さーーん!ちょっと!」
俺はテラスから中庭を見下ろした。
Nさんは麗江で会ったその旅人と無事に再会を果したようだ。
しかし、よく見るとその旅人の横にもう一人女性がいる。民族衣装を着ているようで、俺はチベット人かなと思った。

俺「Nさん!どうしましたか?」
Nさん「大輔さん!キーボード見つかりましたーーーー!!」

(キーボード?)

俺「え?どういうことですか?!」
Nさん「バンドの新メンバーですよ!とりあえず中庭まで下りて来てくださーい!」


なんのことやらと思いながら下に下りた。

Nさんが、さきほど上から見えた民族衣装の女性を俺の前に連れてきた。「Oさんです!」
ニコっと笑って、そのOさんという女性は頭をさげた。近くで見たらどうやら日本人のようだ。

「え?どういうことですか?」と俺は、まだわけがわからなかった。

「いや、大輔さん中国移動の旅でよく言ってたじゃないですか!俺のギターだけだと音が薄いからピアノ弾ける人でもほしいって!彼(麗江で会った旅人)が、俺らがバンド組んだの知ってて、それで彼女を紹介してくれたんですよ!ピアノ弾ける人このホテルにいるよって!」
Nさんは、興奮してるのか、めちゃくちゃ満面の笑みだった。

「あ、そ、そうですか…。はじめまして大輔といいます…」と、俺はその彼女に挨拶をした。
ひさびさに日本人女性と話したということもあり変な緊張をしてしまった。Nさんの興奮も少しわかる気がした。

「あの…キーボード弾けるの?」
「うん。キーボードがあればね(笑)」
「あ!そうだよね。。普通キーボード持って旅してないよね(笑)」

そんな会話をした。

Oちゃんは、このホテルに滞在してる日本人の中でも一番の古株で、チベットのことにとても詳しかった。
またしっかりとチベット仏教を理解していて、チベット人の考え方や生き方を愛していて、それ故チベット民族の服装をしているのだった。
俺ら5人の誰よりも、旅に出ている期間が長く、もうすぐ1年を迎えると言っていた。
歳は俺よりも1つ下だったけど、長く旅をしているせいかとても落ち着いて見えた。

俺は改めて話をした。
「俺らは、これからネパールに入るんだけど、ネパールのポカラでライブをしようと思ってるんだ。もしよかったらその時一緒にやってくれない?」

Oちゃんは「どんな音楽?」と聞いてきた。

確かにそうだ。いきなりライブやろうって言われても困っちゃうよな、と思い、
「もし、今日これから時間あるなら、俺らの泊ってるゲストハウス来ない?そこで聞かせるよ」と言った。
Oちゃんは「うん、いいよ」と答えた。

俺らは、どきどきしながらOちゃんを連れてゲストハウスに戻った。

そして、中国での移動で練習してきた曲を演奏することになった。

練習はたくさんしてきたが、みんなで人前で演奏するのはこれが初めてだった。

俺がギターを弾き、Nさんが歌う。
C君とTが二人でブルースハープ。

K君はにやにやしながら隣で聞いていた。

たった一人の前で演奏するだけなのに、俺らはガチガチに緊張していてまったく練習どおりにはいかなかった。

なんとか1曲歌い終わって、はぁ…とため息をついた。

こんな状態で「ライブをする」なんてよく言えたものだ。

「こ、こんな感じなんだけど…」と、俺は照れ隠しもあり苦笑いしながらOちゃんを見た。

Oちゃんは真剣は顔をしていた。

そして、静かに笑ってこう言った。

「いい曲だね。私もバンドのメンバーにいれてくれますか」

 

 

rainmanになるちょっと前の話。14


ラサでの突然の出会いから、「THE JETLAG BAND!!!」のキーボード奏者が見つかった。
しかも女の子である。

国内でプロを目指し活動してるバンドなら、まず演奏能力をみたりしてメンバー加入を決めたりすることが多いだろう。
しかし、俺らは一人旅の旅行者が各自旅を続けながら活動する特殊なバンド形態。
そして全員が音楽を始めたばかりの素人なので、「気が合うこと」という条件が合えばそれでメンバーになってしまうのである。

中学の頃、友達同士でバンドをやろう!と話し、じゃんけん等でパートを決め、その後楽器を買う…という懐かしくも微笑ましいあの頃のバンド形態そのものなのだ。

俺らにとって、旅の間の、「暇つぶし」で始めた「遊び」としては、とても刺激的なメンバー加入だった。

そして、俺がひとつ今回の件で嬉しかったことは、NさんもC君もTも、いままでの中国の旅で「バンドを組んでネパールでライブをしよう!」という俺の問いかけに、乗り気ではあったが明確な返事はしていなかった。
しかし、Oちゃんの前で演奏することによって、「聞いてくれる人の前で演奏する」ことの「楽しさ」を感じてくれ、さらに上手く演奏できなかったことへの「もどかしさや悔しさ」を感じてくれたことだった。
Oちゃんの加入によって、俺ら自体が、「バンドを組んでライブをするんだ」ってことへの明確な意思表示が出たように感じた。

その後Oちゃんと話していくうちに、俺らはベトナムのニャチャンという町で一瞬すれ違っていることも判明した。
すれ違っているといっても、話したことはなかった。
当時、一緒に行動していた俺とS君が、夜にたまたま立ち寄ろうとしたビアホイ屋があったのだけど、中には日本人客がいっぱいだった。
店の人は「席を作るから」と勧めてくれたのだけど、俺らは「他の店に行くよ!」と入らずに出て行ってしまったのだ。その時店の中で飲んでいた日本人客の中の一人がOちゃんだったらしい。入らずに帰った俺らのことを覚えていてくれたのだ。
その時店に入っていれば違う話になっていたかもしれないね…なんて話した。

こうしてめでたくキーボード奏者が見つかったのだけど、ひとつだけ問題があった。

キーボードが無いのである(笑)。

俺らは早速、Oちゃんと共に、ラサの町に楽器屋を求めて繰り出すことになる。
ポタラ宮殿に行くよりも先に楽器屋を探すことを優先してしまうという、「ラサにまで来て、ほんと何やってんだ」と笑われそうだが、俺らにとってはそれが大事だったのだ。

人に尋ねながら町をさまよい歩くと、ついに楽器屋は見つかった。

聞いたことの無いメーカーのキーボードが3種類くらい置いてあった。
どれもオモチャに毛が生えたような代物だったが、Oちゃんの希望で、最も広いオクターブが出るキーボードを購入した。少し値段が張ったので、みんなで少しずつ中国元を出し合った。
バスの移動費はケチって闇バス組織と交渉したりするのに、こういう時はみんな気前がいいのである(笑)

よっしゃ!宿に戻ってみんなで音を出してみよう!と、俺らは意気揚々とホテルに戻った。

ホテルの部屋に入り、俺が簡単に歌詞にコードをつけた紙をOちゃんに渡し、カウントを数えて全員で音を出した。

その時、Oちゃんが「あれ?」と言った。

「どうしたの?」と聞いたら、「音が出ない。いや、出るんだけど、和音が出ない。」と言ったのだ。

まさか?と思い、俺もそのキーボードを触ってみた。

ほんとだ…和音が出ない。。。。

たとえばCというコードなら「ドとミとソ」を押さえるのだけど、同時に3つ押さえると、その中のたまたま最初に感知する一つの音しかでないのだ!
3オクターブくらいある長い鍵盤なのに、まさか単音しか出ないなんて!!

俺らはお互いの顔を見合わせた。
そしてOちゃんが吹き出し、みんなもつられて笑った。

言っちゃ悪いけど、さすが中国クオリティという話だ。笑うしかないのだ。

当たり前に和音が出るものだと決め付け、しっかり確かめもせずに買ってしまった俺らも悪い。
勉強費用だと思うしかなかった。

しかし、俺らもそれくらいのことで諦めたりしなかった。
「よし、明日からまたキーボードを探そう。きっと和音が出るキーボードも売ってるよ。」という話になった。
旅人は、切り替えだけは早いのだ(笑)

その日の夜は、新メンバー歓迎を祝してみんなで飲んだ。

Oちゃんは、ラサに長く滞在しているだけあり、美味しい店を知っていた。
酢豚やら、小籠包やら、みんな好きなものを頼んだ。
過酷な中国の旅での中で、一番の救いは、やはり「食」の豊かさである。何千年の歴史かはわからないけど、とにかく飯がうまい。脂っこくてキツイという旅行者もいたが、20代の俺らには、活力の源だった。

Oちゃんを含めた俺ら6人のほかに、Oちゃんを紹介してくれた旅人と、そしてもう一人「Mさん」という旅人も、その席に参加していた。

Mさんも、実は麗江の同じゲストハウスで一緒にすごした旅人の一人だった。
俺らよりも早くチベットを目指し麗江を出発したのだが、ここラサで再会を果たしのだ。
MさんはOちゃんの泊っているゲストハウスに泊っているということもあり、Oちゃんとも仲が良かった。

Mさんはこのとき唯一の30代。Nさんよりも歳が上で、俺らの中では、Nさんが「兄貴」、Mさんが「大兄貴」というような存在だった。
とは言っても、兄貴風を吹して威張るような人ではなく、物腰の柔らかい紳士で、俺らのことを「若さっていいよなー」と微笑ましく観察しているようなタイプだった。

「Mさん、なんでまだラサにいるんですか?ずいぶん前に麗江を出たから、もうとっくに南に下ってるのかと思ってましたよ」とNさんが言うと、「いやー、実はパスポートを無くしてしまって…」と、Mさんは言った。
「えーー!大丈夫なんですか!」とみんなが驚くと、「いやいや、もう見つかったんだよ」と言う。

「でもね、ちょっと見つかるまでが面白くてね…」と、Mさんが話し出した。

ラサに来てまもなく、Mさんはパスポートが無くなっている事に気付いたらしい。
焦りまくって、四方八方を探し回ったが、見つからなかった。困っていると一人のチベット人が「よく当たる占い師がいるから、その人に相談してみたらいい」と言ったそうだ。
その占い師のところにMさんは行った。
そこで占い師に、「なにもせずにもう少しこの町に滞在すれば、パスポートは戻ってくるだろう」と言われたらしいのだ。
Mさんは、勿論半信半疑だったが、パスポートが無いと動けないのでしばらくラサで生活をしていたらしい。
そうしたら、ある旅行代理店のスタッフが「このパスポート、君のだろ?」と差し出したのだそうだ。

「まじ!?すげーその占い師!」とTが言った。
みんなも「神の住む町チベットらしい話だ!」と、笑った。

Mさんのそのエピソードもあり、この夜の宴はさらに盛り上がり、俺らも友情を深めていった。

そして、話は鳥葬の話になる。

俺らが「絶対に見てみたい!」と思っていた、あの「鳥葬」だ。

MさんやOちゃんは既に鳥葬を見に行っていて、鳥葬ツアーについて詳しく知っていた。
俺らは真剣に情報収集をした。

そして、「やっぱり鳥葬見ないとここまで来た意味ないっしょ!」となり、早速、鳥葬ツアーのための、ドライバーを探すことになる。

先輩ラサ住人のアドバイスのもと、俺らは無事に鳥葬ツアーに出かけられるようになった。

次は、その時の「鳥葬」の話でも書きたいと思う。

 

rainmanになるちょっと前の話。15


「鳥葬ツアー行きませんか?メンバー募集」という紙が、ラサ内のゲストハウスの掲示板にはよく貼ってあった。

鳥葬は、ラサから半日ほど移動した山の奥にあるティグンティ寺という場所で行われる。

そこまではバス等は出ていないので、ランドクルーザーをチャーターしていくしかない。
しかしドライバー付きのランクルを借りるのは高い。
そこで5〜6人でランクルをシェアしてなるべく費用をかけずに見に行くというやり方が個人旅行者には主流だった。

俺らが鳥葬ツアー用に手配したランクルは、運転手以外に6人乗れた。つまり、俺ら5人以外にもう一人乗せることができるのだ。
なるべく最大人数で行ったほうが安いということもあり、同じゲストハウスに滞在していた◎◎さんという女性を誘ってみた。

◎◎さんは女性一人で旅をしているバックパッカーで、俺らと同じくゴルムドからラサまでの、あの過酷なバス移動をしてきたツワモノだった。しかも、正規料金ではなく闇バスで来たらしい。公安に見つからないように、チェックポストではバスのトランクの中に隠れたと言っていた。なかなか凄い体験である。

◎◎さんは「鳥葬、行ってみたかったの」と、俺らのツアーに同行するのを快く承諾してくれた。

旅をしていて驚くのは、意外と「一人旅の女性と遭遇することが多い」ということだ。しかも長期旅行者が多い。
男と比べてはるかにリスクは高いはずなのに、彼女らは男顔負けのハードな旅をしているのである。
案外、男のほうが気が小さくて、女性のほうが度胸があるんじゃないかと思う。
女性バックパッカーは現地人が近寄るスケベ心を逆に手玉に取ったりして、自由奔放に旅を楽しんでいるように見える。
Oちゃんもそうだけど、◎◎さんもそんな女性バックパッカーの一人だった。

俺ら6人は、1泊2日の鳥葬ツアーを組んだ。
「朝出発し、昼過ぎにティグンティ寺に到着。その晩は寺で泊り、次の日の朝鳥葬を見て、夕方にはラサに戻る。」というコースだ。
ランクルの運転手は気のいいチベット人のお父ちゃんで、フレンドリーに俺らの希望を聞いてくれた。

ティグンティ寺への道のりは、思った以上に過酷だった。
途中までは市バス等も走っている道を進んでいくのだが、しばらくすると突然「道が無くなる」のだ。
ランクルでも進むのがやっと…というような、乾いた砂と岩のデコボコ道を少しずつ進んでいく。
まったく車が走った形跡のない荒野を、ガクンガクン跳ねながら走るのだ。
時には、激しい流れの川を横切って行くことも合った。橋があるのかな?なんて思いながら座席から外を見ていると、突然川の中に車が入っていくのでびっくりする。
車体が3分の1くらい水に沈みながら進んでいくのだ。
しかも、山に向かっているのでラサからまたどんどん標高が上がっていく。
すでに4000Mくらいになっていた。

日が沈みかけた頃、やっとティグンティ寺が見えてきた。
大きな山の崖側に張り付いたように建っている寺だった。意外と大きいしっかりとした建物だ。

寺には何人かの僧侶がいて、俺らが着くのが見えると出迎えてくれた。

ここでは一定料のお布施をすれば鳥葬の見学をしてもいいということになっている。しかも宿泊所付きだ。
お金を払うと、さっそく俺らを部屋に案内してくれた。

部屋の扉を開けると、そこから両サイド広がる大きな広間が見えた。壁に張り付いた形で、右側に6個、左側に6個ベッドがならんでいる。かなりの大部屋だ。
俺らはそれぞれ好きなベッドに荷物を降ろした。

そこで不思議なことに気付く。

なぜか入り口の扉から見て右側に並ぶベッドに、6人全員が陣取っているのだ。

広い部屋だし、わざわざ片方に固まらず左右に分かれたらいいのに…。

K君が、「なんでみんなあっち側のベッド使わないの?」と言った。
Nさんが「なんででしょう(笑)なんか足が向かないんですよね」という。
「俺もなんとなくこっちに来ちゃった」とC君。
なぜか6人とも、扉の左側半分に行きたがらないのだ。

少し気味が悪かったが、「まぁお寺だし不思議なこともあるよね…」と俺は無理やり笑った。

あとでわかったんだけど、左隣の部屋は午後に届いたご遺体を次の日の朝まで保管させておく、いわゆる霊安室だった。

日が暮れると、ほんとに真っ暗になった。

蝋燭と懐中電灯の明かりのみで過ごさなければいけない。
古い寺なので、隙間風がすごかった。
標高も高いし、山の上に寺が建っているので、冷たい風がびゅーびゅーいってる。

俺は、正直にいうと、怖かった。

しかし、そんなときに限って、腹が痛くなりトイレに行きたくなる。

トイレは庭を横切った少し遠い場所にある。崖のほうだ。
俺はC君を誘った。
「トイレ行くから、付いて来てくれない?」と。

トイレは、崖から飛び出したように設置されていて、しゃがんで用を足す穴を覗くと、崖の下の建物が小さく見える。
まるで空中で用を足しているような錯覚。旅の中でも一番印象に残っているトイレだ。

一番びっくりしたのは、お尻を拭いたちり紙が、穴の底から吹く風に煽られて目の前まで舞い上がってきた時だ。
「うを!」と声を出してしまい、トイレの外で待ってくれていたC君に「だいじょぶっすか!?」と言われてしまった。なさけない。

そんなこんなで夜を超え、いよいよ朝を迎えた。

電気が無い場所での朝日って、ほんとに有難いんだよね。

俺らは庭に出た。

僧侶が掃除をしていた。

「鳥葬は何時からですか?」と聞いたが、中国語で返事が来たためなんて言ってるのかわからなかった。
しきりに首を振っている。

俺らは、しょうがないので、鳥葬が行われる丘まで自分達だけで歩いていくことにした。

実は、鳥葬をする場所までは、寺からさらに歩いて30分ほど山を越えていかなければならない。標高4400Mの場所にあるのだ。
途中、雪が舞いだした。かなり寒い。
丘が見えて、「ここが葬儀の行われる場所だ」ってことはすぐわかった。小屋が一つあり、その前に土俵くらいの大きさのサークルがあり、サークルの中は石畳になっていた。丘には旗がたくさん結ばれていて、ばたばたとはためいていた。

しかし、そこには人が一人もいなかった。
もう日も高くなってきている。こんな時間まで儀式が行われないということは、なにかあったのだろうか?

俺らは再び寺まで戻った。そして年配の僧侶に今度は聞いてみた。そして衝撃の事実が判明する。

なんと、「今日は仏さんが一体も届いていないので、鳥葬式はない」というのだ!

たしかに、いくら式場に来たって、亡くなった方が来なければ葬式はできない。。

俺らは「えーーー!」と驚き、「まじかよー」となった。
亡くなった方がいないのは、大変喜ばしいのだけど。。。

ここでみんなで相談タイム。

「どうする?」
「どうするって、このまま見ないで帰るの?」
「じゃあもう一泊する?」
「えーー、昨日怖くて全然寝れなかったんだよなー。もう一泊かぁ」
「でも、せっかくここまで来て見ないで帰るのはいやだ!」
「でも、明日仏さんが届く保障もないしな」
「もう一泊だけしようよ」
「うーん。。まぁそうしようか」

唯一女性の◎◎さんが、最後まで「宿泊所が怖いから、一人だけでも、もう帰りたい」と言っていたのだが、結局みんなに説得され、しぶしぶもう一泊付き合う形になった。ごめん◎◎さん。

ランクルのドライバーは、かなり値段を吊り上げてきた。「一泊のスケジュールで組んでるからもう一泊は無理だ」と最初は言われた。
たしかに彼にも予定はあるだろう。しかし、俺らが彼の言い値でOK出すと、「わかった。もう一泊だけだ」となんとかOKしてくれた。

そういうわけで、まさかのティグンティ寺もう一泊となったのだ。

しかし、泊まるのはいいが、明日の朝までは暇だった。

俺らは僧侶のおじさんたちと話したり、精進料理を食べさせてもらったり、曲を作ったり、バンドの練習したりして過ごした。

夕方になると、急に寺中が慌しくなった。

崖の下から何台か車が到着した。
そして布に巻かれたご遺体が車から出され、親族だと思われる方達が寺の庭にご遺体を並べた。
全部で4体あった。
その周りと僧侶が囲み、念仏を唱えだした。
俺らはこれが「ポア」の儀式だとすぐにわかった。
あまり詳しくはないんだけど、チベット仏教は、ポアをして魂を成仏させると、ご遺体はただの物体になる。
そうしてから、鳥に食べさせるのだ。

これで明日の朝、鳥葬が見れるのは確実だった。
目の前に、4体のご遺体が転がっているのだ。

そして再びあたりは暗くなった。
俺は前日よりも怖さはなくなった。人間、慣れるものである。

そして遂に朝を迎えた。

昨日よりも、まったく違う朝だった。
僧侶達が忙しそうに動き回っていて、そのうち若い僧侶が俺らの部屋まで来た。
これから儀式を行うから、付いて来いと言っている。

俺らは、僧侶の後を追って、昨日の朝歩いた鳥葬場までの山道を黙々と進んだ。

いよいよだ。

 

rainmanになるちょっと前の話。16


鳥葬式が行われる丘に辿り着いた。昨日と比べると風も少なく、それほど寒さは感じなかった。
もうすでに、何人かの僧侶と、仏さんの親族らしい人々と、そして布に包まれた仏さんが4体、そこに到着していた。

僧侶達が、石畳のサークルの上に仏さんを並べて、手際よく布を取っていく。

裸の状態の仏さんが、ごろんと石畳に転がった。

親族の方達は、俺らが見ているのを気にも留めずに、時々談笑をしながらそれを見守っていた。

俺はこれからどうなっていくのかとドキドキしていたのだが、僧侶や親族達は意外にも和気藹々とした雰囲気で少し拍子抜けするような感じだった。

前日の夕方に行われた「ポア」という儀式で魂を成仏させた後は、魂の宿っていた肉体そのものは、すでに「ただの鳥のえさ」として見られているようだった。
理屈では俺もわかっていたが、なかなか割り切れずにいた。
とても談笑なんてできない。
大自然の中に転がっている肌色の物体に違和感を感じずにいられなかった。

突然、僧侶が鉈のようなもので、仏さんの肌に切り込みを入れていった。
太ももやお腹、両腕、背中。
肌はパカっと避けて、中から赤い色の肉が見える。血は流れてこない。もう死んでいるのだから当たり前だが。

その時、丘の上の方にある岩が少し動いたように見えた。
俺は隣にいたNさんに「あの岩、今動いたように感じたんですけど」と言った。
Nさんは「まさか、そんなバカな」と言って丘を見た。

その時また、今度ははっきり岩が動いたのが見えた。俺らはその時わかったのだ。
「あれは岩じゃない!鳥だ!!」

丘の上に転々と置かれていたように見えた沢山の岩は、すべてハゲワシだったのだ。俺はぞっとした。
「鳥」という生き物で想像できる大きさを、はるかに超えている。でかすぎるのだ。

親族達が動き出した。
石畳の周りを囲むように並び、外側を向いて、上着を脱ぎ、それをばさばさと振った。丘の上から近寄ろうとしている鳥達を威嚇しているように見えた。

そんな中、仏さんはどんどん切り刻まれていく。
髪の毛もべりっとはがされた。掌や足の裏もスライスするようにはがされた。鳥が食べづらい硬い部分を一つずつ解体しているようだ。

鳴き声が聴こえたので、俺は空を見上げた。
腰が抜けそうになった。
さっきまで青い空が広がっていたのに、いつのまにか何百という鳥の大群が空を旋回しているのだ。
ハゲワシ、ハゲタカ、コンドル、カラス。様々な鳥がいた。しかも、すべての鳥が規格外にでかかった。
異様な光景だった。

僧侶達が合図をして、サークルを囲んでいた親族達が再び元の位置に戻った。準備が整ったようだ。

その瞬間、ついに一匹のハゲワシが丘の上からタタタタタ!と、走って降りてきた。羽で飛ばずに足で走ってくるのが、なんとも言えず怖かった。
そして仏さんの体に噛み付いた。
それを合図にしたように、他のハゲワシ達も丘から一気に駆け下りてきた。そして空からもいっせいに舞い降りてくる。

俺の肉眼からは、もう鳥の羽や背中しか見えなかった。仏さんがどういう状態なのかは確認できない。

奇声をあげながら、鳥達は我先にと餌に食いついている。

すさまじい光景だった。壮絶だ。

俺らは、何も喋らず、動くこともできず、ただただ、数メートル先で行われているその光景をじっと見ていた。

突然、小さな肉片が俺の足元まで飛んできた。
とっさに後ずさりする。
でもなぜか後ろに下がってはいけないような気がして、俺は体勢を立て直し再びもとの位置に立った。

唯一の女性、◎◎さんはさすがに途中から目を覆い座りこんでしまった。

何分くらい経ったろうか、30分以上の気もするが5分くらいかもしれない…、次第に鳥達がまた空に羽ばたいていった。
親族が再びサークルを囲い、残っている鳥達を追い払うように上着をバタバタさせた。

鳥達がさったあとの石畳には、薄ピンク色の骨が転がっていた。

もう人間の形はしていなかった。

僧侶達が今度はハンマーのようなものを持って、それに近づいた。

そして無表情のまま、骨をハンマーで粉々にしていった。
頭蓋骨も見えた。それも、丁寧にハンマーで砕いていく。

しばらくすると、骨がすべてピンク色のミンチ状になった。

また僧侶が親族に合図を出し、親族がサークルを離れた。
そして再び、鳥達が集まりだした。
今度は、先ほどより比較的体の小さい(といっても普通にでかい)ハゲワシが多かったように思えた。

土俵くらいの大きさの石畳のサークルをすべて覆うくらいの大量の鳥が、砕かれた骨を蝕んでいた。

俺らは相変わらず、何も喋れずに、それを見ていた。

数分後、あっという間に骨はなくなった。

鳥達が空に帰っていく。

残ったのは、石畳の間に詰まった小さな肉片だけだった。

最後にカラスがたくさん舞い降りてきた。
そして、憎たらしいほどきれいに、すべての肉片を食べていった。
俺の足元に飛んできた肉片も、カラスが近寄ってきて食べた。

俺は呆然としていた。

さっきまであった4体のご遺体が、ものの数十分で文字通り「無」になってしまったのだ。

僧侶達は手際よく片づけをしている。
親族達も満足そうに頷きながら寺の方に戻っていった。

「すごかったね…」俺はやっと言葉を発した。
Nさんが「想像以上でした」と言った。

K君は口を硬く閉じて、何も無くなった石畳の上を凝視していた。
C君もTも疲れきった様子で座り込んでいた。
◎◎さんは青い顔でずっと黙っている。

「戻りましょうか」とNさんが言い、俺らはフラフラと寺に戻っていった。

頭の中で、いろんな想いがぐるぐるしていた。

輪廻転生。
動物を食べて生きてきたのだから、最後は動物の餌となり役に立とうという考え方。
鳥葬は天葬とも呼ばれていて、肉体を天に運ぶという意味もあるということ。
生きている不思議、死んで行く不思議。

寺に、着いてからもしばらく放心状態で、俺の頭はぐるぐるしていた。

ほんとに見てよかったのか?そんな思いに囚われそうになる。
心の中に、他人の葬式を、自分の興味本位で見たとことへの不謹慎な気持ちも確かにあった。
しかし今更そんなことを言ってもしょうがない。俺は好奇心でもうそれを見てしまったのだ。
見れてよかったと思うことにしよう。そう思った。
そして、このときに感じた、生と死の生々しい感情を忘れないでおこうと決めた。

俺は、目を閉じて顔をあげ、そして空に向かって静かに合掌した。

 

 

 

rainmanになるちょっと前の話。17


鳥葬ツアーから無事にラサに戻ってきた俺らは、ラサの町を思い切り楽しんでいた。
ラサは、空気は薄いけど、慣れてしまうととてもいい気候だった。
日中はカラッとして過ごしやすく、日差しが多少強いけど、空は透き通っていて青かった。

ずっと楽しみにしていた「ポタラ宮」も見に行った。インドへ脱出する前のダライラマが住んでいた王宮、世界遺産だ。
近くまで来て正面から見ると、かっこよすぎてにやけてしまう。大好きな建物だ。
宮殿の中まで見学できるようになっていたので早速入った。中は迷路のようになっていて、たくさんの部屋にたくさんの仏像や曼荼羅があった。
とても楽しめた。

その他に、ジョカンと呼ばれる寺の周りを囲んでいる土産物屋が俺はお気に入りだった。よくTと一緒に「アイテム探し」と称して、様々な土産を買ったものだ。ゆっくり店を見ながらジョカン寺を一周すると、それだけで半日くらいすぐに経った。
チベットはシルバーが豊富で、シルバーの指輪やブレスレット、またお香入れやお香立て、そしてマニ車や仏像までなんでもあり、俺らは値段交渉しながらそれらを買いあさった。マニ車っていうのは、円筒に棒がささったようになってるもので、棒を上手く振ると円筒がくるくる回る。円筒の中にはロール状の経文が入っているんだけど、1周マニ車を回せば一回お経と唱えたことになる!という便利なアイテムなのだ。ちょっとずるい気もするが(笑)
ラサの人々は片手にマニ車を持って、くるくる回しながら歩いてる人も多かった。

そうそう、忘れてはいけないのは、Oちゃんに弾いてもらう「キーボード」を探す件である。

なんと俺らがラサを出る直前に、売っている店が見つかったのだ!
今度はちゃんと複数音が出るか確かめた。

無事に購入でき、めでたくOちゃんはキーボーディストとして「THE JETLAG BAND!!!」に加入したのである。

そして俺らがラサを出る日がやってきた。

Oちゃんは、もう少しラサに残るというので、「ではネパールで再会しよう!」ということになった。
「コードを書いた歌詞ノート」も渡した。再会する時まで自己練習してもらうためだ。
Oちゃんは「ネパールも楽しくなりそう」と言ってノートを受け取った。握手をして別れた。

俺らは、ラサを離れ、バスで「シガツェ」というチベット第2の都市まで向かった。

チベット圏からネパールに入るには、ランクルを調達してツアーを組まなければいけない。
しかし、ラサではネパール国境まで直接行ってくれるランクルドライバーを見つけることができなかった。
そこで、ラサの南西にある「シガツェ」でドライバーを探すことにしたのだ。

チベットはヒマラヤ山脈に囲まれているため、中国から入るときと同じように、ネパールに抜けるときもまたヒマラヤ(今度は逆側)を越えなければならない。
山のプロK君が言うには、「シガツェ→ネパール国境」間は1000キロくらいの移動距離で、20時間くらいで着くらしい。標高も、高いところでも5000Mは超えないらしい。途中に湖周辺やエベレストベースキャンプ(ABC)を通過するからゴルムド・ラサ間よりも楽しいと思うよ、と言っている。
「移動時間は20時間で済む」とか、「標高5000M以内だから大丈夫」とか、日本にいたら考えられない会話だが、中国・チベットで過酷な移動を続けていくうちに、そのへんの感覚が麻痺してしまっていて、K君の話を聞いた俺らも「へー、それなら大したことないね」とか言ってしまっている。ほんとに、慣れというのは恐ろしいものである。
しかし、こういう感覚は、この後のネパール・インドでの移動でとても役に立つことになる。ネパール・インドでの10時間程度の移動は、「お!近いね!」というレベルなのだ。10時間の移動を「近い!」と思うようになれば、もう立派な長期旅行者である。

無事にシガツェに着き、さっそくランクルのドライバーを探した。

2000年当時は、闇ランクルのようなものもあり、パーミット(通行証)を持たないままネパールに抜けるツアーを組むドライバーも存在していた。
当然のように俺らはその闇ランクルドライバーを探した。安く行けそうだったからだ。

なかなかシガツェから一気にネパール国境に隣接している町「ダム」まで直行で行ってくれるドライバーはいなかった。
ゴルムドでそうしたように、俺ら5人はシガツェでも町中を歩き回り、ランクルドライバーを探した。

しかしやはり見つからない。仕方ないので、政府の管理するツーリストオフィスまで行き値段交渉をしようということになった。
門番がいるような立派な門を潜り、俺らは中に入った。そこでは高圧的な公安が、パーミットの確認や破格に高いツアー料金を提示したりしてきた。
なかなか話はまとまらなかった。
俺らは、うなだれながら泊っているホテルに戻ってきた。

しばらくすると、ホテルの部屋の窓から、自転車に乗ったチベット人のおじさんが近づいてくるのが見えた。
自転車に乗ったおじさんは、俺らの部屋の窓の側まで来て手を招いている。なんだ?と思って、俺らは窓に近づいた。

その時、俺は思った。「あれ?あの人どっかで見たことあるような…」
Nさんが「あ!!あいつ、さっきのツーリストオフィスの門番ですよ!」と言ったのだ。
みんなも「あ!!そうだ!!」と声を出した。

門番が何の用なんだ!と俺らは外に出た。

すると、おじさんは真剣な顔をし、早口で俺らに問いかけた。
「◎◎元で、ネパール国境まで行けるけどどうする?」
最初、なにを言ってるのか意味がわからなかった。
しかし、話していくうちにそれが値段交渉だということに気付いた。

つまりなんと、政府の機関の建物の門番が、闇ランクルのドライバーだったのだ(笑)
昼間は政府のために働く門番、しかし裏の顔は闇ランクルで旅人を運ぶ仕事人ということか!
俺らはびっくりするというより、このヘンテコな展開に笑ってしまった。

そして俺らは、その門番のおじさんにネパールまで運んでもらうことを決めた。

移動は、バスでの移動と比べとても快適だった。
乗っているのが俺ら5人の身内だけなので、トイレ休憩やご飯休憩も自由にできるのがありがたかった。

湖や、エベレストベースキャンプを超え、ランクルは進んでいく。

この移動で見た景色が、また最高に素晴らしかった。この世のものとは思えない世界が目の前に広がっていた。
俺は今まで、この星には人間が入り込んだことの無い場所などもう残っていないのだろうな…と思っていた。
しかし、違う。
この星には人間が立ち寄ることの出来ない場所がまだまだたくさんある。
それはヒマラヤの人々からすれば「神の領域」ということになるのだろう。
俺らはその神の領域の風を感じながら、ネパールを目指した。

そして、約丸1日の移動の末、俺らは中国・ネパール国境に到着した。

ついに長かった中国(チベット自治区も中国内)の旅が終わる。
本当に本当に、中国を超えるのは長かった。
でも、忘れられない体験もたくさん出来た。
俺にとって、この旅、2度目となる中国は「悪くなかった」。
「圧勝」は出来なかったが、「完敗」ではない。「引き分け」というところか。
それもこれも、頼もしいチベット越え仲間、Nさん、C君、K君、Tの4人がいてくれたのが非常に大きい。
出会いに感謝した。

そしていよいよ、待ちに待ったネパールに入国だ。
本当にネパールでライブが出来るのか?!俺の心は高鳴っていた。

しかし、そう易々とは俺の旅は進まないらしい…。
この後も、さらに奇妙な運命のうねりに飲み込まれていくことになるのだった。

 


rainmanになるちょっと前の話。18


中国を出国して安堵したのもつかの間、ネパール入国はとんでもなく大変だった。

山道を登りながらネパールのイミグレーション(入国管理局)を目指すのだが、突然道が無くなり、崖が広がったのだ。どこかに回り道があるのかと辺りを見ても、あるのは目の前の崖だけだった。
そして崖の下を見下ろすと、ネパールのイミグレの屋根が小さく見える。

途方にくれていると、後ろからやってきた現地人が俺らを追い越し当たり前のようにその崖を降りていった。

「なるほど、そういうことね。」と俺らはため息を付く。

つまり、この崖を自力で降りて、ネパールに入国しろということなのだ。(※ちなみに現在は橋がかかっているらしい)

両手で岩に捕まりながらゆっくり降りなければいけないような険しい崖なのだが、俺の両手は塞がっていた。
右手にギター。そして左手に、和音の出ない例のキーボードを持っていた。
キーボードはラサに捨ててこようかと迷ったのだが、なぜか愛着が出てしまって持ってきたのだ。
俺は、旅に関係ないものばかり持ち歩いてしまう癖があり、バックパックの中も、中国で買ったマージャン牌や神様の置物各種。スピーカーや、海賊版CD&カセット各種(当時はi-podなんてないのだ)でいっぱいになり、とにかく荷物が多かった。
しかし、崖を降りない限りネパールに入国できない。NさんやK君に楽器を持ってもらいながら何とか進み、やっとの思いでネパールインした。

その日はもう遅かったので、ネパール国境の町「コダリ」で一泊することに。

俺らは、無事にネパールに入国できたことを祝しその夜は大いに食べて飲んだ。チベットでは精進料理のようなものばかりだったので、ネパールカレーやモモが本当にありがたかった。

次の日、朝早く起きてチケットを手配し、カトマンズ行きのバスに乗りこんだ。

たくさんの乗客にまぎれて、なんとか席に座ったのだが、とっさに窓際に置いた俺の小バッグが、一瞬の間に消えた!

「あ!!!」と思った時にはもう遅い。
バスの外側から、開いていた窓に手を伸ばされ、バッグを盗まれたのだ!

窓から顔を出してみると、俺のバッグを持った男が遥か向こうへ走っていくのが見えた。
「やられた!!」

すぐにバスを降りようとしたのだが、次々と乗車してくる客に逆流することになるので上手く進まない。
やっとバスを降りた時には、男の姿などまったく見えなかった。

俺は大きなため息をついた。

旅に出て半年以上が過ぎていた。旅に慣れた心に「甘さ」が出てしまったのだろう。
「荷物を体から離す」という、アジアの旅でやってはいけない初歩的なミスを犯してしまった。
同行する旅仲間も増えて、待ち焦がれたネパールに来たということで、少し浮かれすぎていたのかもしれない。
盗んだ男を恨む前に、俺は自分の旅人としての甘さに反省していた。
アジア舐めんなよ!ってことなのだ。
甘さが出たとき、「旅」というものは、いつもちょっぴり痛くそれを教えてくれる。
俺は、もう一度しっかり身を引き締めなくちゃ…と思った。

バッグの中には、カメラやフィルム、そしてここまでの旅で出会った人のプロフィールや連絡先を書いた「出会い帳」なんかも入っていた。
お金やカメラはいくらでも渡すから、とにかく「出会い帳」だけは返してくれよ!という気持ちだった。
盗んだ男にとって、俺が旅で出会った人の連絡先などまったく必要のないものなのだから…。
旅での「宝物」のひとつである「出会いの軌跡」を俺は無くしてしまい、それが一番ショックだった。

しかし、なぜかいつもそのバッグに入れてあった、いままで書き留めた曲の「歌詞ノート」だけは、たまたま外に出してあり、手元に残った。
Nさんがそれを見て、「唄を唄えってことじゃないですか?」と言った。
なんだかその言葉を聞いて、すこし心が軽くなった。
「まだ『唄』が残ってる」と。

バスは、何事も無かったように、走り出した。

夜が更けた頃、俺らは無事にカトマンズに到着した。

俺はカトマンズには過去に何度か訪れていたので、みんなをバスターミナルから安宿街まで案内した。
「タメル」と呼ばれる地区が、旅人にとっては拠点となる安宿街だった。
タイのカオサンと少し雰囲気が似ているが、タメルのほうがもう少し規模が大きく、にぎやかで混沌としている。
活気があって大好きな場所だ。

それこそ何百という宿があるので、夜も遅いし俺らはとりあえず適当なゲストハウスにチェックインした。
なぜか俺らは全員腹を壊しており(たぶんネパール入国後に暴食したのが原因?)、その晩は静かに寝た。

次の日、俺はネットカフェに行き「THE JETLAG BAND!!!」のメンバー「ラオスで別れたS君」と「チベットで別れたOちゃん」に「無事にネパールインできたよ!」ということをメールした。
「雲南省で別れたBOSS」にも、「よかったらネパールに遊びに来てね」と送った。

ついでに今までメール交換した旅人達にも「ネパールでライブやるので、暇ならネパール来てよー」と送信。
インディースバンドではよく近くに住んでる人にメールでライブ告知等をするが、国をまたいで誘ってしまうのが長期旅行者らしいところ(笑)。しかも、意外とみんな暇なようで、各国から「ネパール目指すよー」なんて答えが多かった。

その後、俺らは腹痛と戦いながらも、楽しくカトマンズでの生活を送った。

屋上に登れるゲストハウスに移動し、昼間はみんなで屋上にあがり、バンドの練習をした。

中国移動の間ずっと練習してきたので、まだ楽器を触って一ヶ月とは思えないほどC君やTは、ブルースハープが上達していた。
そして、Nさんも、ここカトマンズでついに「ネパール太鼓」を買い、パーカッションを叩きながら唄うことに…!Nさんの太鼓は、まだまだ下手だったけど(笑)、練習する時間はたっぷりある。
K君は相変わらずマイペースに、絵を描いたり山の地図を見たりしていたが、いつも俺らの演奏するそばにいて聞いてくれた。
俺らは、カトマンズの町を屋上から見下ろしながら、練習を続けた。

そして、ある日の昼下がり、ゲストハウスを出て5人で飯を食いに行こうとしたら、路地の向こうから見覚えのある顔が、大きな荷物を背負って歩いてきた。
巻きスカートにサンダル、髪の毛はボサボサで、随分とヒッピーオーラが増してはいたが、笑顔は一緒だった。

S君である。

俺らは、お互い目が合い、「おーーーー!!!!」と言って近寄り、がっちりと抱き合った。
「来たね!」「来たよ!」

「あれから俺、約束どおりバンドのメンバー増やしたんだ!これがメンバーだよ」とみんなを紹介した。
「おー!Nさん久々!Tも一緒なんだ!」とS君。この二人とS君は東南アジアで会っている。
K君とC君とも、気が合いそうだ。すぐに仲良くなるだろう。

S君は、俺とヴァンビエンで別れた後、ミャンマーとバングラディッシュと北インドを旅してネパールインしたという。

S君と無事に会えたことが嬉しかった。

あの日、ヴァンビエンで、俺が思いつきでS君に語った「ネパールでライブやりたい。S君ネパールで待ち合わせしよう。俺はそれまでバンドメンバー揃えておく」という言葉が、現実になりつつあった。

S君との再会で、THE JETLAG BAND!!!の勢いは、ここカトマンズで急速に増していくことになるのだった。

 

rainmanになるちょっと前の話。19


ネパールの首都カトマンズでの生活は心地よかった。

S君の合流で、ゲストハウス屋上でのバンド練習にも刺激が加わり、みんな下手くそだったけど真剣に取り組んでいた。

何かを覚えたり習ったりする時、「旅」ほど最適なものはないのでは?と思う。
旅の間は、「やらなければいけない事」っていうのがないので、やりたいことだけを好きなだけやれる。お腹が減れば飯を食いにいって、眠かったら寝る。それ以外は好きなことだけに時間を使えるのだ。
そういう生活の中で、好きで孤独になり、好きで過酷な移動をする。本当に旅は「贅沢な遊び」の一つだなと、つくづく思う。

S君の合流の数日後、ついにOちゃんがチベットからネパールにやってきた。
重いキーボードを持って、あの崖を渡り、国境を越えてきたのだ。
俺ら男の子たちはみんな、紅一点のOちゃんの合流を心から祝し歓迎した。女の子が一人加わるだけでこうも違うのか!?とびっくりする程、メンバーみんなの生活に潤いが出たように思えた。女子はやはり偉大である。

これで、俺がここまでの旅で声をかけたバンドのメンバーは、カトマンズでついに全員揃ったことになった。

俺はこの「マンガのような展開」にニヤニヤしつつも、胸が熱くなっていた。
約7ヶ月前、日本を出国したばかり頃は、まさかこんなことになるなんて思ってもいなかった。
思えば、ベトナムでたまたまギターを買ったあの日、なにかが動き出したような気がしたのだ。
各国でギターを通して出会った旅人達が、今こうしてネパールに集結し、俺が作った曲を一緒に演奏してくれている。こんなステキなことってあるだろうか?「出会い」と「音楽」が俺を救ってくれたのだ。

そして俺の旅は今、自分でもまったく予想の付かない方向に流れている。
これからどうなるんだろう。本当にライブできるのかな?
そんなことを思いながら日々を過ごした。
「いくところまでいってみるか」そんな気持ちだった。

ある日、一人で夕暮れのタメル地区を歩きながら、シルバーショップにふらっと寄った。
そのショップには、シヴァリンガを象った珍しい指輪が置いてあった。
シヴァリンガというのは、ヒンズーの神様シヴァ神のシンボルで、男性器と女性器の性交をモチーフにした形だ。
実は俺は、「ヒンズー教の神様」オタクなのだ。数多いヒンズーの神々の生い立ちやエピソードを調べたり、町で子供たちが売り歩いている神様ポストカードを集めたりするのが大好きだった。
レアなポストカードがあれば、高値でも迷い無く手に入れる(笑)。
今までの旅で200枚くらいの神様ポストカードをコレクションしていた。

ヒンズー神の中で、特に俺は「シヴァ」という神様のファンだった。
だから、そのシヴァリンガをモチーフにした指輪を見たときは震えるくらい嬉しかった。

早速、店の人と値段交渉したら意外と安かった。しかも在庫が15個くらいあるという。
俺はその時、思い立った。「この指輪をTHE JETLAG BAND!!!の仲間達全員に付けてもらおう!」と。

「沢山買うから、もう少しディスカウントしてよ!」とお願いし、店にあるその指輪をすべて買って帰った。
宿に戻り、早速メンバーに見せると、みんな気に入ったようすで指にはめてくれた。
後々その指輪は「ジェットラグリング」と呼ばれ、仲良くなった旅人達に俺が渡し、少しずつ広まっていく。ちなみにrainmanのメンバーもみんな持っている。

カトマンズでは、他にも「ジェットラグTシャツ」を作ったりした。
ネパールでは、Tシャツにミシンでオリジナルの刺繍をする店が多く、デザインを描いて持っていけばその通りに作ってくれるのだ。みんな各自好きな色で「THE JATLAG BAND!!!」という文字が刺繍されたTシャツを作り、それをライブのときに着る衣装にしようと話した。

演奏の上達よりも、こういう「形から入るバンド活動」に俺は力をいれていた(笑)。
肝心の演奏はというと、全員で合わせてみるとあまり上手くいかず、まだ手ごたえは無かった。でも、「なんとなく楽しい」という感覚で、毎日をやり過ごしていた感じだった。

カトマンズでの生活で、もうひとつ記しておきたいのは、俺の「母親」が日本からやってきた事だ。
俺がしばらく旅から帰ってこないので、いったい息子はフラフラと海外でなにをしているのだ?と思ったらしく、航空券を予約してここカトマンズまでやってきたのだ。
今、俺も子供を持つ親となり、少しはこの時の母親の気持ちがわかるような気もするが、この時の俺はただただ母の行動力にびっくりするばかりだった。
母親は5日間ほどネパールに滞在し、俺の旅での生活に密着し、裏も表もすべて見て、そして帰っていった。

そんなこんなのカトマンズライフを過ごし、そろそろ「ポカラ」にみんなで移動しよう!ということになった。
俺は、ライブはポカラというネパール第二の街でやるつもりでいたのだ。

ポカラには、「ホテルひまり」というゲストハウスを経営してる俺の友達「ラジュー」がいた。
以前の旅でポカラに寄った際、とてもお世話になったネパール人で、その後もちょくちょく日本ネパール間で連絡をとっていたのだ。
ラジューはやり手のホテルオーナーで、日本語も達者だった。
ポカラでライブをすることについて具体的になんの計画もなかったのだが、彼に相談すればライブをやれる場所くらいスムーズに確保できるのでは?と俺は思っていたのだ。

俺らは、ポカラまでのバスのチケットを取り、約6時間の移動の末、ポカラにたどり着いた。

事前に連絡してあったので、バスターミナルまでラジューは迎えに来てくれていた。

ラジューは日本語で「いらっしゃい!!だいちゃんひさしぶり!」と言って握手をしてきた。
俺も「ラジュー、世話になるよ!よろしく!」と手を伸ばした。

ラジューは、「ホテルは全室空けてあるよ。好きにつかってくれていいよ!」と言った。
なんとも頼もしいやつである。

俺らはホテルひまりに移動し、各自好きな部屋をとった。
友達だけで、一つのゲストハウスを占拠できるなんて夢のようだった!
ラジューありがとう!!

こうして、俺らTHE JETLAG BAND!!!の、「ホテルひまり」での摩訶不思議な共同生活が始まったのである。

 

 

rainmanになるちょっと前の話。20


ホテルひまりオーナー、ラジューの粋な計らいでゲストハウス全体を占領できることになった我々THE JETLAG BAND!!!。
ホテルひまりは2階建ての屋上つき。玄関を入ると正面に中庭があり、その庭をコの字に囲むように宿舎が建っている。
1階は、ラジュー家族の部屋や食堂などが入っていて、ホテルの客はほとんど2階に滞在する形になる。屋上にも一つ部屋があった。
俺ら7人は各自好きな部屋に陣取った。

俺は前回ひまりに滞在していた時に泊っていた部屋を希望した。
一番広く、日当りのいい「角部屋」である。
みんなが集まることも多いと思うし、一応今回のバンド遊びの発起人でもあるので、みんな俺がそこに陣取ることを了承してくれた。

俺の部屋の左隣の小さな部屋はC君が入ることになった。
C君ルームは2階の一番左端の部屋にあたり、部屋の真下は、ホテルの出入り口でもある受付のある部屋にあたった。
自分の部屋より、俺の部屋にいるほうが長いのでは?と思うくらい、C君は俺の部屋にいた。
帰るのは眠るときくらいだった。

俺の部屋から右側は、庭を囲むように5つ部屋が並んでいる。
すぐ隣はキーボード担当の女の子Oちゃんの部屋になった。
女の子らしく、いつもきれいに使っていた。

その隣は、S君が陣取った。
S君は「オレこの部屋、カフェにするわ」と突然言い出し、毎朝「仕入れ」と称して買出しに行き、お菓子や軽食類、水やお茶やジュース等をまとめ買いするようになる。
最初はみんな「S君いったい何を始めたんだ!?」と物珍しそうに見ていたのだが、後々この「カフェ」がとても便利で役に立つ場所だと痛感させられる。
「ちょっと水が切れちゃったけど外に買いに行くの面倒だなぁ」なんて時や、「小腹が減ったけど深夜だし食堂は閉まってるなぁ」なんて時は、S君カフェに寄れば大体の要望が叶うのだ。勿論値段はカフェマスターのS君に払うのだけど、外で買う値段と変わらない。まとめ買いするので少し安いくらいだ(笑)
このカフェは、日が経つにつれどんどんクオリティがあがり、「LAG TIMERS CAFE」という名前まで出来、看板やメニューなども作られた。
ときどき他のホテルに泊っている旅人なんかもカフェの客になっていた(笑)。
色んな旅人に会ったが、ゲストハウスの自分の部屋を「カフェ」に改造したやつは後にも先にもS君ただ一人だ。こういう柔軟で遊び心のあるやつが俺は好きだった。

S君の部屋の隣は、階段とシャワールームのスペースがありそこが建物のコーナーになっている。
各部屋にシャワーは付いているのだがドミトリー客(共同部屋)用のシャワーがここにあるのだ。

階段を超えて、次の部屋がNさんの部屋だ。
Nさんの部屋のドアには、いつのまにか「N整体研究所」とかかれた札が貼られてあった。
まったくどいつもこいつもホテルの部屋を勝手にいろんなものに改造したがる(笑)
ある日、「Nさん、整体研究所ってなんすか?」と俺が聞くと、「私は昔から『微動術』というマッサージを研究しているのです。是非、体がお疲れの時はご予約いれてください」と言われた。
「微動術??なんすかそれ??あの、いま予約していいっすか?(笑)」
「わかりました。では楽な服装でベッドに横になってください」
何が始まるのだろうと、どきどきしながらNさんの部屋のベッドに仰向けになっていたら、いきなりNさんは俺の両足首をつかみ、そして俺の体をとても細かく揺すってきた。
最初は戸惑ったが、しばらくして慣れてくるとこの細かな揺れが心地よいことに気付く。全身の力が抜けていき、頭がまっしろになった。リラックス効果絶大だ。
俺は気付いたら眠ってしまっていた。起きたらすでに窓の外は暗くなっていて、俺の体には毛布がかけられていた。「あ!すいません。いつのまにか寝てしまって…」と言うと、Nさんは「構いませんよ。お疲れになっているのでしょう。」と言いながら横でお茶を飲んだりしている。
うーむ。。恐るべし微動術!おそるべしNさん…。
「変な部屋ばっか…」とつぶやきながら、カフェを横切り俺は自分の部屋に戻ったのだった。

Nさんの部屋の左隣がTの部屋だ。Tも、C君と同じようにほとんど俺の部屋にいた。
TもC君も、ブルースハープだけでは飽き足らず、ギターも教えてほしいと言い出し、俺は基本的な音の構成やコードの押さえ方なんかを彼らに教えた。
相変わらず二人とも上達は早かった。

Tの部屋を超えた先にある部屋が、2階の一番右端の部屋にあたる。
大部屋になっていて、ベッドが4つほどあり、ドミトリーとして使われていた。
ここにK君が陣取ることになる。
ここはあまり日当りがよくないせいか、K君は、昼間はほとんど、屋上か、S君カフェにいた。
天気がいいと屋上からは大きく連なるヒマラヤの中の「アンナプルナ山脈」が見渡せた。
アンナプルナ山脈の中で一際目立つのが「マチャプチャレ」である。
マチャプチャレの頂上付近はフィッシュテールとも呼ばれ、まるで魚の尻尾のようにとんがっていてかっこいい。
俺は富士山の次に好きな山だった。

俺らは「毎朝10時に食堂に集合し、バンドの練習をしよう」という決まりごとをつくった。
食堂を練習スペースとしてラジューが提供してくれたのだ。
広くて、椅子やテーブルもたくさんあるし、音が響くので練習には最適な場所だった。

午前中精一杯練習をして、午後は各自自由に自分の旅の時間を過ごした。

ポカラの町で旅人が拠点とする場所は、「レイクサイド」と「ダムサイド」の二つに別れる。
レイクサイドは、欧米向けのレストランや土産物屋、ホテル等が多くたくさんの白人さんたちで賑わっていた。
ダムサイドは比較的田舎風景で、小さな食堂やリーズナブルなゲストハウスが多かった。日本人はダムサイドの方が性に合うらしく、多く滞在していた。
ホテルひまりも、ダムサイド側にあった。
ダムサイドもレイクサイドも、大きな湖「フェワ湖」で繋がっている。湖沿いを歩けば30分くらいで行き来できる距離だ。

俺はよく、午後はフェワ湖にボートを浮かべ、ゆらゆら揺れながら過ごした。
マチャプチャレに見下ろされながら、緩やかな午後の日差しで湖の水面がキラキラ光るを眺めるのが、たまらなく好きだった。

ある日、ラジューが俺を呼び止めた。
「だいちゃん、ちょっとレイクサイドまで一緒にいかない?紹介したい友達がいるんだ」
暇だったので俺はその誘いに乗った。ラジューのバイクの後ろに乗りレイクサイドまで向かった。

ラジューは「クラブ アムステルダム」という名のレストランに入っていった。いい名前だ。
レイクサイドの町のど真ん中にある、大きなレストランだった。
店はウッディーな感じで統一されて雰囲気があり、店の奥はテラスになっていて、その向こうにはフェワ湖も見えた。

ラジューはその店のオーナーだという男性を俺に紹介してくれた。ラジューとは幼馴染だという。
「だいちゃん、ライブやりたいって言ってたよね?この店どうかな?と思って」とラジューは言った。
え!ここ?こんな立派な店でやっていいの?!と俺は思った。
「今、オーナーと話したんだけど、ぜんぜん使ってもらって構わないって。アンプやスピーカーも一通りあるし、たまに地元バンドがライブやってるんだよ」とラジューは言う。
オーナーの男性はニコニコしながら頷いている。

俺らにこの店に相応しいほどの演奏ができるかなー?と少し不安もあったが、せっかくのラジューの好意だ。俺は「ありがとう!ぜひやらせてもらうよ!」と言った。
いつにする?というので、練習期間ももらいたかったし約2週間後の週末を押さえた。

というわけで、いきなりライブをする場所と時間が決まってしまった。
ラジューに相談すればなんとかなると思っていたが、まさかここまでスムーズにいくとは。
俺はオーナーと握手をして、店を出た。

ラジューのバイクに乗りホテルまで戻る間、徐々にライブが決まったという実感が沸いてきて緊張した。

その夜、メンバーに「日にちと場所が決まったよ!」と、報告した。
みんな喜んではしゃぐというよりは、「ついに具体的に動き出したか!」と、気合を入れてる感じだった。

次の日の朝練習からは、前日までとは比べ物にならないくらいみんなに集中力があったのは言うまでもない。

練習を終えて、みんなで色々とミーティングをしていると、ラジューが食堂に入ってきた。

そしてラジューは、俺らに思いがけない提案をしてきたのだ。

「みんな!今度の週末、練習がてら、うちの庭でライブやってみない?」

 

 

rainmanになるちょっと前の話。21


ホテルひまりのオーナー・ラジューの提案で、俺らはレイクサイドにあるライブレストラン「クラブ アムステルダム」でライブをする前に、「ホテルひまり」の中庭でまずライブをすることになった。

俺は最初「スピーカーとかアンプがないと無理だよ」と言ったのだが、ラジューは「大丈夫、なんとかするよ!」と、自信たっぷりなのだ。
ラジューにはお世話になっているし、せっかくの好意なのでやってみることにした。
いきなりレイクサイドのお店でライブをするより、ラジューの言うとおり一度練習がてらミニライブをやっておくのもいいかもな、と思ったのだ。

というわけで突然間近にライブが決ったのだが、実はこの時、俺らはある問題をかかえていた。

例のラサで買ったOちゃんのキーボードなんだが、またしても欠陥品だったのだ。
最初に買ったキーボードは、一つの鍵盤を押した状態だと他の鍵盤を押しても音が出ない…つまり和音が鳴らないという欠陥だったんだけど、次に買ったキーボードは、「ド」の位置の鍵盤を押すと「ミ」が出るのだ(笑)
「レ」は「ファ」になる。
つまり鍵盤の音が全体的に2音ずつずれていた。

本当に素人まるだしで恥ずかしいのだが、俺らは全員、しばらくそのことに気付かずに練習していたのだ。
「なんでこんなに音が合わないのだろう。気持ち悪いなぁ」と思ってはいたのだけど、俺のギターのチューニングが狂いやすいのが原因だとばかり思っていた。しかしギターをキーボードに合わせてチューニングすると、今度はブルースハープと音が合わない。まさか鍵盤そのものの音が狂っているなんて考えもしなかったので、原因がそれだとわかった時は目からウロコ状態だった。またしても中国クオリティにやられたようだ。

しかしOちゃんはめげなかった。原因がわかって良かった!と言って、すべての曲のキーを2音ずらして楽譜を書き直しはじめた。キーがEの曲なら、OちゃんだけはCで演奏するのだ。ややこしいけどしょうがない。ライブは間近にせまっているのだ。Oちゃんが頼もしく見えた。

練習、練習の日々の中、ホテルひまりに新しいメンバーが増えた。

いつものようにホテルの中庭で、ラジューの子供たちと日向ぼっこしていたら、BOSSが入り口から入ってきた。
中国・大理でお世話になった、あのいかついお兄さん「BOSS」である。

「うをーーー!来てくれたんすねーー!」
「なんか、おもしろいことになってるみたいだから遊びに来たよ」
固い再会の握手をした。

BOSSはK君の滞在しているドミトリーで生活するようになった。
K君は楽器をやらないので、BOSSという同居人ができて嬉しそうだった。

そしてもう一人メンバーが増えたのだが、この旅人に関しては少し説明をさせてもらいたい。

彼の名前は仮に「Zさん」ということにしておこう。

Zさんと最初に出会ったのは、今俺がしている2000年「最後の旅」の約3年前。
俺はその時インドのバラナシという街にいた。
バラナシではビシュヌレストハウスというガンジス川沿いのホテルのドミトリー(共同部屋)にチェックインした。
1泊約50円のそのドミトリーは、長方形の部屋にベッドが10個くらい並んでおり、一つ一つのベッドの枕の先に小さな小窓が付いていて、その小窓からはガンジス川を見下ろせるというステキな環境だった。
そして、俺が割り当てられたベッドの隣に、たまたま滞在していたのが「Zさん」だったのだ。

俺はこの時、初インドで、入国して3週間目という状態だった。
そして、正直に言うとかなり「インドが嫌い」になっていた。
最初に飛行機で降り立った深夜のデリーでは暗闇から石を投げられ「ふぁっきんじゃっぷ!」と言われ、旅行代理店ではだまされ、商店ではおつりを毎回ごまかされ、腹は壊すわ、人は多すぎだわ…とにかくインドに惨敗中の情けない旅を続けていたのだ。

そんな時、Zさんの存在には大変助けられた。

Zさんのベッドは一目で「長期滞在しているな」とわかるほど「自分の部屋化」されており、実際そうだった。

チェックインしたばかりの俺に気さくに声をかけてくれ、「少し街を案内するよ」と散歩に誘ってくれた。
ガート(沐浴場)沿いの、彼が贔屓にしているというチャイ屋に行ったり、美味しいヨーグルト屋を教えてくれたりしながら、バラナシに着いたばかりの俺にとって非常に参考になる「この街で生活するコツ」をZさんは教えてくれた。
Zさんは現地の子供たちにも大人気で、すれ違う子供がみんな彼に挨拶していった。そんな風景を横目で見ながら、こんな風に軽やかにインドの街を歩けたらステキだなぁと俺は思った。

Zさんとはバラナシで別れた後も、すぐにネパールのポカラで再会した。俺はその旅で初めて「ホテルひまり」に滞在したのだが、Zさんがわざわざ「ひまり」まで訪ねてきてくれたのだ。一緒にひまりで生活し、トレッキングに行ったり、ダムに遊びに行ったり、俺らは親友と呼べるほど仲がよくなっていた。

日本に帰国してる間も、Zさんとはたまに会ったりしていた。
Zさんは北九州に住んでいたのでなかなか頻繁には会えなかったが、彼が東京に遊びに来てるときなど、俺に連絡をくれたのだ。

そして今回の旅で、俺が日本を出国するにあたり船で下関から出ることになったので、「それなら北九州にいるZさんのところにも寄らせてもらおう!」と、出発前に連絡をしていたのだ。
しかしZさんの答えは意外なものだった。
「だいちゃん、実は俺もちょうどその頃から旅に出るんよ。だから日本では会えないけど、ベトナムか中国か、旅の間に再会しようや」と言うのだ。
「そうなんだ!それは偶然だね!じゃあ旅先で会おう!」と答えた。
そして、今回の旅の間、俺はEメールを通してZさんに連絡し、何度か接触をはかったのだけど、なかなかタイミングが合わずに会えずじまいだったのだ。

Zさんと俺はそんな関係だ。

話を本編に戻そう。

ある日、ホテルひまりの屋上で俺は洗濯物を干していた。
屋上つきのホテルは、洗濯物が広々と干せるという利点があるので好きだ。旅人にとって洗濯は大仕事なのだ。なるべくならカラッとした天気のいい日に一気にやっつけてしまいたい。その日も天気がよかった。

ホテルひまりの隣には、手を伸ばせば触れるくらいの近さでもう一つ3階建ての大きなゲストハウスが隣接されていた。
ひまりは2階建てなので、屋上に上ると、隣のホテルの三階部分が見える感じだ。
そこも日本人に人気のあるホテルのようで、いつも慌しく人が出入りしていた。

トランクスを干していると、突然隣のホテルの窓がガラっと空いた。
窓を開けた人物と目が合った。

Zさんだった(笑)。

「うをおお、Zさんじゃん!!!びっくりしたよ!!!ネパールにいるなら連絡してよー!」
「いやいや大ちゃん久しぶり。なんかライブやるとかメールで書いてあったから来たんだけど、ひまり部屋埋まってるっていうからさー」
「なに言ってんの!言ってくれれば部屋くらい空けるよー!移ってきなよー!」
「あ!そう?じゃあそっち行くわ」

と、Zさんは言い、なんとその部屋の窓から体を乗り出し、そのままジャンプしてひまりの屋上までやってきた。

こうしてZさんとやっと再会を果たし、俺はとても心強い仲間を得たのだ。

そうこうしている内に、ひまりガーデンでのライブの2日前となった。

キーボードもキーを変えて楽譜を書き直し、全体的にもなんとか聞かせられるかな?という感じだったが、まだまだ不安は消えなかった。

そんな時、また一人、ひまりに旅人がやってきた。

Mさんだった。

Mさんを覚えているだろうか。
チベット・ラサで鳥葬に行く前にOちゃんらと一緒に呑み、パスポートを無くし占い師に相談して見つけたというエピソードを持つ大アニキMさんだ。
Mさんはあの後ネパールを超え、インドまで下りたのだが、俺らのライブがやはり気になり戻ってきたという。

一度通り過ぎた国に戻るのはなかなか出来ることではない。俺らは宴を開き、再会を喜んだ。

その時、Nさんが「こうなったら一緒にライブやっちゃいましょうよ!」と言った。
Oちゃんもそれに乗り、「Mさん一緒にやろうー!!」と言い出した。
ライブ直前になってメンバーになれと言われてもMさんにとっては迷惑な話だ(笑)。
Mさんは勿論「誘ってくれて嬉しいけど丁重にお断りします。」と言った。まぁそうだろう。

ところがみんな引き下がらない。
きっと、ライブ直前で本当に自分達でライブなど出来るのか?という不安故、最年長の落ち着きのあるMさんを仲間にして、自分たちも落ち着きを取り戻したかったのだろう。

俺は、みんなの気持ちも察してMさんに話しかけた。「シェイカーとかならリズムに合わせて振ってもらえればいいし、座ってくれてるだけでもいいので、Mさんやってくれませんか」
Mさんもさすがに根負けしたようで、「そうですか。では力になれるかわかりませんが参加させてもらいます」と言ってくれた。
無理に誘って申し訳ないという気持ちが強かったが、Mさんも男気のある人で「引き受けた以上は楽しむ!」と言った感じで練習に参加してくれ、俺はほっとした。

こうして「菩提樹の実のビッグシェイカー奏者」として、MさんがTHE JETLAG BAND!!!のメンバーとなった。

そしてついに、満を持して「ホテルひまりガーデンライブ」当日を迎えたのだ。

 

続く

さえないバックパッカーがガンジス川船上ライブをするまでの軌跡 1

※この文章は、俺(大輔)が12年続けたrainman(レインマン)というバンドの解散を発表してから、解散ライブをするまでの約3ヶ月の間に、ブログ掲載していった旅行記をまとめたものです。

 

 

rainmanになるちょっと前の話。1


解散を発表してから、解散ライブまでのこの期間。
実になんともいえないモチベーションの期間である。

そうそう人生の中で「この期間のこの感じ」を味わえることはないのでは…、と思ったら、急に「あの日々の話」を記しておこうと思いたった。

まだ一度もしっかり文字にしてなかったあの日々の話。

たぶん、今記すのが一番いいタイミングだと思ったわけです。

この話は、rainmanになるちょっと前の話。
お暇な方は付き合ってください。


20世紀最後の年、2000年の初夏、俺は「最後の旅」と心に決めて、東京の部屋を引き払い旅に出た。
前日に、25歳になったばかりだった。

20代前半は魔力にとりつかれたように、アジアを中心にバックパックを担いで各国を飛び回った。
アジアの行きたい町や遺跡に出向き、満足して帰国してくるものの、またすぐに行きたい場所ができて、また出国。そんなことを何度も繰り返した。
10代にやっていたパンクバンドはメンバー全員で東京に出てきたものの、見事に挫折し空中分解。絵に描いたように「東京」という街に押しつぶされて散っていった。
音楽という夢を諦めた20代前半の俺には、「旅そのもの」が生きがいだった。

しかしその旅も、繰り返し続けるうちに「こんな生活を送っていてもキリがないな」と思いだしていた。
旅の中毒性、出国帰国の抜けられないループに陥っていた。

そして25歳という節目を機会に、「次の旅で最後にしよう」と決めた。

最後はなるべく行きたい国を全部回ろう。飛行機は使わずに、陸路と海路で、日本からすこしずつ西へ進もう。お金の続く限り長い間旅をしよう。そして、出来れば、「旅以外の何か」を掴んで帰ってこよう。そんなようなことを思いながら…。

「飛行機を使わないルール」を自分で作ってしまったので、まず島国日本を脱出するのには海路を使わねばならなかった。
調べたら下関から韓国の釜山(プサン)に出ている船が片道8500円と安かった。俺はまず、本州を西に進み山口県下関港を目指した。
途中、京都や岡山などに寄って友人の世話になった。旅を繰り返しているうちに旅先で仲良くなった友達が全国に散らばっていた。

船での出国は思った以上にスムーズだった。飛行機と比べて身体チェックや出国手続きも少ない時間で済んだ。
船の中は、大広間に畳が敷かれていて、移動の間はそこで雑魚寝しながら過ごす。日本人はほとんどいなくて、だいたい中国人か韓国人の、日本に出稼ぎに来たような感じの人たちが乗っていた。

船の中で、片言の日本語で韓国人のおじさんから声をかけられた「釜山になんの用があるんだい?大きな荷物だな。」
俺はなぜかとっさに「これから世界一周するんだ」なんて答えていた。つい言ってしまった、という感じ。おじさんは真顔でなにかに納得したように何度も頷いてた。

夕方船に乗り込み、畳の上で寝て、朝起きたらもうそこは釜山港だった。

こうして俺の「最後の旅」が幕を開けたわけだ。


その後バスで、俺は釜山からソウル、それからインチョンというソウルの北西にある港町までゆっくり移動した。

朝鮮半島からユーラシア大陸に陸路で入るには北朝鮮を越えなければいけない。さすがにそれは色々と手続きが面倒だったので、再び船に乗って、中国のチンタオという港町まで行くことにした。
このときの船の移動は、下関から釜山までの船移動よりもさらに日本人がいなく、たぶん見た感じ俺一人だったと思う。
このときは畳で雑魚寝ではなく、二段ベッドが2つ入った4人用の小さな共同部屋で、その一つの二段ベッドの上側が俺に割り当てられたスペースだった。部屋の中の俺以外の3人は仲間らしく、朝方まで元気に喋っていて俺の眠りは浅かった。

青島と書いてチンタオと読む。
青島ビールで有名な町だってことは知ってたけど、逆に言えばそれくらいしかその町のことは知らなかった。

中国での生活は思った以上に大変だった。英語がまったく通じなく、中国語も勿論話せないので、会話はすべて筆談だった。
漢字のわかる国に生まれてよかったとこれほど思ったときはない。麻婆豆腐や青椒肉絲、回鍋肉。メニューに書かれた漢字は大体わかった。食べたいものが注文できるのが唯一の救いだった。

チンタオから上海、その後広州と海沿いを列車で南下していった。
上海で少し日本人の旅行者と話したが、それ以外はほとんど一人きりで孤独な日々が続いた。

一人旅は意外と「暇」なのである。何もしなければ、何もしないことに誰も文句を言う人がいないので、永遠に何もしないでいられる。
腹が減ったりすると、「飯を喰う!」という行為が出来るので「やることが見つかった!」と、嬉しくなったりするほどなのだ。

広州から少し南に下ったら、すぐ下にベトナムがあった。俺は、ベトナムビザを取得してそのままベトナムに入ることを決めた。
中国という国に少し疲れていたのかもしれない。少し西に進めば旅行者が多いと言われる雲南省があるのだが、そこまで辿り着く元気がなかった。

ベトナムに列車で入り、首都ハノイに滞在した。
ハノイで泊まったゲストハウスにはたくさんの日本人がいた。5人分ほどのベッドが横一列にならんでいるドミトリーの一室で俺は生活をした。

ハノイに着いても、中国から引きずっていた、何か「旅にノリきれていない」と感じる中途半端な状態が続いた。
新鮮な顔で旅をしているバックパッカーを横目に見ながら、自分の、この空虚感はいったい何なのだろう?と感じる日々を過ごしていた。
俺はいったい旅というものに何を期待しているのだろうかと…。

ハノイから少し北にあるサパという村に移動した。少数民族が生活している山の中にある小さな村。
そこで、ライスの上にパクチーを乗せ醤油をたらしただけのようなご飯を毎日食っているうちに、少しずつ気持ちが落ち着いてきた。
相変わらず一人ぼっちだったけど、山岳民族の子供たちの笑顔を毎日見るのが楽しみになっていった。

再び、ベトナムを南下するためにハノイに戻った。
サパに行く前に滞在していたゲストハウスに戻ると、ドミトリーはいっぱいで、ダブルルームを二人でシェアする形でしか部屋は取れないと言われた。仕方なくその部屋に決めると、もう先に一人目の客がその部屋にはいた。背の高いひょろっとした体格の、俺より数歳年上に見える日本人男性だった。

彼は咳き込んでいて、見るからに体を壊していた。
俺を見ると、咳き込みながら「すみません。風邪をひいてまして…」と言った。
俺は、軽く会釈をして部屋を出た。

ハノイの町を散歩している途中に、一つのリサイクルショップに出会った。
リサイクルショップというよりは「なんでも屋」みたいな、小さな雑貨屋。
そこに、なにか魔がさしたようにふらっと入ってしまった。
店の奥にギターがあった。ギターといっても、ウクレレより少し大きいくらいの大きさで、「ギターみたいなもの」と言ったほうが適切かも。
値段は「US9$」と書いてある。900円くらいだ。

魔のさし方の連鎖なのか、なぜか俺はそのギターを指差し、「これください」と言っていた。

裸のままのその「ギターみたいなもの」を片手で持ちながら、歩いてゲストハウスに戻ると、同居部屋の風邪っぴきの兄さんが、一言言った。

「おー、ギターですか。なんて名前なんですか?」
「いや、さっき買ったばかりで名前とかないけど…」(なんだその質問!?)
「名前付けましょうよ!シェガーレイとかどうすか?好きなボクシング選手なんすよ!」
俺は、話しているうちになんとなくその陽気さに気分が和んで、「じゃあこのギターはシェガーレイ・ハノイって名前にしますよ!」と答えていた。

彼は、その日の夕方、ベトナムの中央部にあるフエという町にバスで移動していった。

俺はその日から、そのギターみたいなものを「暇つぶし」の道具として、たびたび暇なときに弾くようになる。

ドミトリーに移ったあとは、隣のベッドの旅人に「ギター弾けるんすねー」なんて言われて「いやー、昔バンドやってたことあってー」なんて答えたりしていた。

 

そのうち俺もハノイを離れてベトナム国土を南下する日が訪れた。
ベトナムを南下して、そのままカンボジアに入ろうとしていたのだ。
そして途中立寄ったフエという町で、俺は再びハノイで同室だった時の風邪っぴきだった同居人と再会することになる。

彼の名は「Nさん」といった。
Nさんは俺に「ボクはCDプレイヤーもカセットウォークマンも持っていません。でもこの旅で口ずさみたい私だけの音楽があればいいなと思っています。もしよかったら、わたしに1曲、あなたが作った曲をくれませんか?その曲を歌いながらわたしは旅をします。」と言った。

びっくりしたけど、俺も久々にギターを弾いて楽しかったので、「では一日待ってください」といって、次の日までに久々にオリジナル曲を1曲作って、彼にプレゼントした。
その曲は「あの店今頃」という曲名にした。のちにrainmanの1stアルバムに収録されることになるが、勿論この時は知る由も無い。
彼は「ありがとうございます。この曲を歌って旅を続けます」と言った。

その時から俺の旅が、大きなうねりを起こして、なにかに導かれるように動き出した。ような気がした。

そして、旅での出来事を日記代わりのように「曲」という形に残して、旅を続けてくようになる。

 

 

 


rainmanになるちょっと前の話。2


ギターという新しい「暇つぶし道具」を手にした俺は、ベトナムを少しずつ南下していった。
ハノイからフエ。フエからホイアン。ホイアンからニャチャン。ニャチャンからホーチミンシティ。
ベトナムは日本の本州のように縦に長細い国。
俺のようにハノイからホーチミンシティーに南下するか、その逆に北上していくか、バックパッカーの旅コースは大体その2コースだった。
移動中に滞在する主要な町も大体決まっているので、同じペースで同じ方向に進んでいる旅行者同士だと「やあ、ここでもまた会いましたね」と、何度も再会し、少しずつ友情が芽生えたりする。
フエの村で曲をプレゼントしたNさんとも、その後何度かベトナムで再会した。

Nさんは真面目なまっすぐな人で、教員免許も持っているようだった。
そのくせ人当たりが柔らかく言葉遣いが丁寧で、年下の俺にも「大輔さん」と、さん付けで呼ぶような人だ。
彼もまた日本から船で出国し(彼の場合は神戸→上海だった)、世界を回ろうとしている途中だった。ちょうど出国も俺と近い時期だ。
今までの俺の周りには居ないタイプの男だったが、なぜか俺らはとても気が合い、徐々に本音で話せるような友情が再会を繰り返すうちに生まれていった。

ある日どこかの町に滞在中、Nさんに「幸せってなんですかねー?」という質問をされ、二人で自分の思う幸せを一つずつあげてみたりした。その箇条書きの「幸せ」を歌詞にして「ハッピーソング〜晴耕雨読〜」という曲を作った。
俺はNさんという人物にきっかけをもらい、忘れかけていた「曲を作る楽しさ」というものを少しずつ思い出していた。

Nさんと同じように、もう一人「S君」という日本人男性ともベトナム南下の旅で仲良くなった。彼と俺は同年代というのもありすぐに打ち解けて話すようになった。
S君はボブマーレイの音源をたくさん持っていて、けっこういいスピーカーを携帯していた。
音楽を聴くバックパッカーにとって、「コンパクトで音がいいスピーカーを持っている!」というのは、とても自慢できることで、それだけで話題の中心になれるほどの威力があるのだ。
S君とはよく音楽を聴いてすごした。時には俺がギターを弾き彼が歌ったりした。

ベトナムでの最後の町ホーチミンシティーに到着したときは、俺もこの「最後の旅」に出て2ヶ月が過ぎようとしていた。

ここでカンボジアのビザを取り、そのままカンボジアを横断してタイランドに行こうと思っていた。タイランドは過去に何度も訪れていて、勝手がわかる。とりあえずバンコクまで行って、その後の事はその時考えよう、そう思った。

ホーチミンシティーでカンボジアビザが出来るのを待つ為しばらく滞在していると、NさんとS君も同じようにその町で滞在していた。何度目かの再会だ。
俺らは「せっかく同じ町に居るならみんなで部屋をシェアして安く借りよう!」ということになり、1週間ほどの共同生活をした。

マーケットをひやかしながらウロウロしたり、戦争証跡博物館を訪れベトナム戦争の事実に唇を噛んだり、ベトナムの発泡酒「ビアホイ」を毎晩屋台で呑み大笑いしたり…それはまぁ楽しい旅ライフを過ごした。
俺とS君は音楽ユニットを組んだりして、「拝啓ゲンノベリン(※雨々『えびとかげ』収録)」などのくだらない唄を作り、屋台で歌ったりした。お互い古い友達のような、そんな関係になっていた。
そして、それぞれが、ビザ取得とともに町を出て行き、また一人旅に戻っていく。

この頃になると、俺がこの旅の初期に感じていた「ある種の孤独感」はどこかに消えていた。
片手にはいつもハノイで買った小さなギター「シュガーレイ・ハノイ君」がいて、出会う旅行者は、ハノイ君をきっかけに声をかけてくるようになり、たくさんの出会いと別れを繰り返した。

カンボジアのプノンペンは、あまり居心地のいい町ではなかった。

銃声というものを生で聞いたのも初めてだったし、警察官の評判が悪く、「賄賂を要求されたりするから警察を見かけたら近寄らずに遠回りしろ」などと先に滞在している旅行者にアドバイスを受けたりした。
なにかあった時、いったい誰に助けを求めればいいのだろうか、そんなことを思いながら。

キリングフィールドや、トゥール・スレン(反ポルポト派収容所が今はそのまま博物館になってる)など見学に行ったけど、本当に悲惨すぎて、自分に置き換えてイメージするのは辛かった。
カンボジアの闇部分がプノンペンを支配しているように感じた。

国境を歩いて超えパスポートにスタンプを押されれば、そこにはもう違う国がある。国が変われば、その場所の空気、思想、歴史が完全に変わるように映る。それぞれに渦巻く闇があって、それは通りすがりの旅行者が簡単に理解できるものじゃなかった。

そんなプノンペンにいながらも沢山の旅行者と知り合った。
その中でも特に共同部屋の19歳の日本人青年と仲良くなった。19歳というのは、いままで俺が会ったバックパッカーの中でも一番若いんじゃないかな。名前は「T」といった。
俺は弟に接するような気持ちになり、兄貴風を吹かしてTをかわいがった。

アンコールワットのある町シェムリアップは、プノンペンと比べてとてもリラックスできる田舎町だった。
滞在した宿がとても気に入って、アンコールワット遺跡観光も行かずに毎日ゲストハウス周辺でグダグダしながら過ごした。

しかし、新しくこの町に入ってくる旅行者たちが、長く滞在している俺を見て「アンコールワットどうでした?」とよく聞いてくるので、そのたびに「いやーまだ行ってなくて…」と答えるのがなぜかとても申し訳ないような気分になった。

俺は2週間目にしてやっとアンコール遺跡群を見に行く決意をした。
しかし、そんな日に限ってここ一番の激しいスコール。
バイクタクシーの後ろに乗って移動していた俺は、アンコールワット見学どころではなく、ずぶ濡れになって宿に帰ってきた。
「ひえー」と言いながら宿の玄関に入っていくと、あのNさんが丁度チェックインしている時だった。
たまたま俺の滞在してた宿に来たわけだ。国をまたいでもまたしても再会してしまうのである。

俺らは再会を祝してささやかなパーティーを開き、アンコールビールを飲みながら乾杯を繰り返した。
次の日の朝、二日酔いの頭で「PARTY」という曲を作った。後に、この時のこの曲がrainmanのデビュー曲となる。

ベトナム、カンボジアで出会った、Nさん、S君、そしてT。
まさかこのとき、別々の町で出会ったこの3人と、約半年後に、「インドに流れるガンジス川で船上ライブをやる」とは夢にも思わなかった。

この後、旅はタイランドそしてラオスと進むことになる。さらにへんてこな出会いがこの後もさらに続いていくのだ。

この話は、一旅行者が、ガンジス川船上ライブを主催するに至るまでの出会いと別れと光と闇の記録です。

 

 

 

 

rainmanになるちょっと前の話。3


まだ乗せるのか?ってほど、旅行者を荷台にぎゅうぎゅうに詰め込み、オンボロトラックは黒い煙を上げて炎天下の中ひたすら西に走った。

20世紀のカンボジアは、まだまだアスファルトの道路は少なく、主要都市を結ぶ国道でさえ砂埃の舞うデコボコ道だった。
デコボコなのは地雷の処理をしたからだ、と誰かが言っていた。
道に空いた穴を越えるたびに、体が宙に浮くくらいトラックの荷台が跳ねるので、乗客はケツの痛みでひーひー言っていた。

「まだ着かないのか?早くこの地獄のような移動を終えたい…。この道を通るのは人生でこの一回きりだ!もう二度とトラックで移動なんてするか!次に来たら絶対飛行機に乗ってやる!」と、俺は心の中で叫んでいた。

最初は談笑してた欧米人旅行者も、もう誰ひとり口を利いてない。
みんな歯を食いしばってケツの痛みに耐えてる。
かれこれ6時間、このジャンピングトラックは走り続けているのだ。

ケツの感覚がなくなり痛みさえも感じなくなった頃、ポイペトに着いた。カンボジアとタイの国境だ。
ふらふらとトラックを降りて、ボーダーを越え、タイ側国境の町アランヤプラテートに入る。
やっとタイランドに入った!

国が変わったということは、あっさりと体感できた。こうも違うのかっていうほどスムーズに車が走るのだ。
しかも、もう荷台じゃない、ちゃんと車内に入れて移動できてる。
エアコンまで効いてる。寒いくらいだ。
やった!俺はついにタイに入ったんだ!と、かなりテンションがあがっていた。
俺は一刻も早くバンコクに着きたくて、国境からノンストップでカオサンまで向かうバスのチケットを取った。

カオサンっていうのはバンコクの一角にある小さなストリートの名前なんだけど、その周辺には手頃な値段のゲストハウスや、欧米人向けのレストランやBAR、みやげ物屋、そしてタイ料理の屋台などが多く、バックパッカーなら一度は訪れる旅人ご用達の町で、賛否両論あるんだけど、俺は便利なので大体いつもカオサン周辺で宿を取っていた。

日が暮れて真っ暗になった頃、やっとバンコクに入った。
カオサンのネオンが窓から見えたときは思わず声を出してしまった。揺れるネオンがお伽の国のようだった。
なんでこんなにテンションがあがってるのか、自分でも不思議だった。
「よっしゃー着いたぜー、ただいま!バンコク!」俺は、はしゃぎまくって外に出た。

しかし、次の瞬間、この旅一番の大失態をしてしまったことに気付く。

浮かれて勢いよくカオサンストリートに飛び出したのはいいが、なんと、俺のかわいいチビギター「シュガーレイ・ハノイちゃん」を、バスの荷台に置き忘れてきたことに気付いたのだ。

気付いた時にはもう遅かった。バスはすでに出発して町の中に消えていた。

やってしまった。
「ただいま!バンコク!」とか言いながら浮かれていた自分が情けない。

そのあとすぐに旅行代理店に行き確認したんだけど、国境とカオサン間を移動するバス会社は100件以上あるらしくて、とても見つからないと言われた。たとえわかっても、一度手放したギターはたぶん戻ってこないと思う・・・と言われた。うん。確かにそう思う。

タイに着いた喜びはあっさり消えて、俺はギターを無くしてしまったショックと長い移動の疲れでフラフラ。ケツもヒリヒリ。
近くの適当なゲストハウスにチェックインして、酒も飲まずに寝てしまった。

しかし、俺は今までの旅生活で身に付けたのか、それとも持ち前の性格なのか、次の日の朝にはケロッと元気になっていた。

「きっと、もう少し良いギターをバンコクで買いなさい!というお告げなんだな」と、思うことにした。切り替えだけは早いのである。

正直、シュガーレイハノイちゃんは、小さすぎた。いや、最初は小さくても何でもよかった、ただ音が出て暇つぶしになれば…。しかし、今のように毎日曲を作ったりするようになると、さすがにもう少しまともに音がでるギターがいいな…と思っていたのも事実なのだ。
シェガーレイハノイちゃん、小さすぎてチューニングも合わないし、フレットも狭くて押さえるの大変だし、「かわいいけど手のかかる奴」だったのだ。

そう思ったら、俺は早速飛び起きて楽器屋に足を運んでいた。カオサンの近くに楽器屋街があったのを知っていたのだ。

そして俺は、この旅で二代目となるギターを買った。今度は25ドルした。
普通のギターよりは小さいけれど、シュガーレイ・ハノイちゃんよりは断然弾きやすくて大きな音が出るやつだ。

ハノイちゃん、いままでありがとう。きっと誰かに拾われて、かわいがられているでしょう。

よし、二代目のこのギターは「ガリレオ・ハノイJr」という名前にしよう。(俺はすっかりNさんに影響されて、モノに名前を付ける癖がついていた)

二代目ギターを持って、再び旅が始まった。
タイを北上してそのままラオスに入り、再び中国を超え、チベットを目指そうと思った。
タイを南下してマレー半島を下る旅は、過去にもやっていたし、チベットはどうしても行きたい場所だったので、あまり寒くなる前にタイを超え、先を急ごうと思ったのだ。

バンコクから一気にチェンマイまで北上し、そのあとチェンライ、チェンセーンとゴールデントライアングルと呼ばれる地帯を回った。

その間、「夢を見るには」や「手紙の唄」という曲を作った。
新ギター・ガリレオくん大活躍だった。

そしてチェンコンというラオス国境と繋がる町へ辿り着き、メコン川を渡し舟で渡り、遂にラオスに入国する。川が国境なのだ。

このあとラオスという国を、俺は一気に気に入ってしまう。
そして、俺の旅の目的が劇的に変わる出来事が起きるのだ。

何かに導かれるように、俺の旅は進んでいく。

 


rainmanになるちょっと前の話。4


メコン川を大きなスローボートに乗ってゆっくり1泊2日かけて下っていくと、ルアンパバンという町に着いた。
この町は、町全体が世界遺産に登録されていて、とても雰囲気のいい町だった。
オレンジ色の鮮やかな服をまとった僧侶達が、朝靄の中を行列をなして歩いているのを見ると心が晴れていくような透明な気持ちになった。
俺はこの町から、ラオス中国国境までバスで北上して急いで中国を抜けようと考えていた。

しかしインターネットカフェに寄ったら、ある一通のメールが届いていた。

旅人のインターネット利用は1995年ごろから少しずつ普及していって、2000年のこの頃は誰でも一人1つフリーアドレスを持って旅するような状況になっていた。
この頃にはアジアの町のほとんどに必ずと言っていいほどインターネットカフェがあり、通信速度は決して速くはないけど、メールのやり取りをするのには十分だった。
インターネットが普及する前の旅は、郵便局留めで手紙をもらって取りにいくか、高い国際電話くらいしか、流れ者の放浪者と連絡をとる方法はなかった。
郵便局で手紙を受け取る瞬間の感動なんかを体感すると、その頃も情緒があっていいなとは思うけど、やはりリアルタイムで情報交換できるEメールは旅人にとって相当心強かった。

メールの送り主は、ベトナムで出会い仲良くなったS君だった。
彼も今ラオスにいるという。
彼が今滞在してるのはヴァンビエンという村で、そこが「めちゃくちゃ最高だからちょっと遊びに来い!」という言うのである。
ヴァンビエンはルアンパバンから半日ほどバスで南下したところにあるラオス中央部の村だった。
急いで北上しようとしてる俺は少し迷った。一度南下すると遠回りになるからだ。
S君のメールは最後にこう〆てあった
「ヴァンビエンを見なきゃラオスは語れんよ」

俺は、「よし。そんなに言うなら、ちょっと遠足にでもいきますか!」と思い、「わかった、じゃあ明日のバスを予約して向かうよ」と返事をした。

どうせ一人旅なんていうものは、急いだところで思い通りに事が進まないということを今までの経験上わかっていたし、S君とも再会したかった。

S君はバンビエンで最高のおもてなしをしてくれた。

バスから降りると、すでに発着所で待っていてくれて、「おー、大ちゃん良く来たね!部屋は取ってあるから!」とゲストハウスまで案内してくれた。

20世紀のヴァンビエンは、昔の、少しずつ旅行者が集まりだした頃のカオサンに似ていた。
これからどんどん変わっていくんだろうな…って感じる町の雰囲気、静かに動き出そうとする活気が、その田舎町にはあった。
ヨーロッパやイスラエルのヒッピーが多く、みんな自由に楽しんでいた。

俺はS君と毎日いろんなところに散歩に行ったりして、のんびり過ごした。確かに、ヴァンビエンを見なきゃラオスは語れんかもな。と思っていた。
そんな日々を「ヴァンビエン村(※雨々「えびとかげ」収録)」という曲にして、二人で唄っていると、ふとあることが頭をよぎった。

「ネパールでライブがしたいなー」

ぞくっと鳥肌がたった。

俺はすぐに、まくし立てるようにS君に提案した。
「今、ふと思ったんだけど、俺がいままで旅先で会ってきた旅人に声をかけて、ネパールに集合してもらって、そこで俺がいままで作った唄なんかを歌えるようなライブが出来たら楽しいなと思うんだけど、S君どう?」

S君はあっさり答えた。「ええよー」

俺は過去に何度かネパールを訪れていて、ポカラという町に仲のいいネパール人の友達がいた。
彼は「ホテルひまり」というゲストハウスのオーナーで、日本語も達者なので、ちょくちょく連絡をとっていたのだ。
俺は、そのオーナーに頼めばライブするにあたっての手助けをしてくれるのでは?と考えていた。
いきなり沸いて出たこの発想。冷静に考えるとまったく現実的ではないのだけど、なぜか漠然と、その風景が頭でイメージできた。
決して、音楽活動を再開しようと思ったわけではない。ただ、最初のギターを買ったときの「暇つぶし」の延長で、面白いことがしたかったのだ。「最後の旅」、遊びたいだけ遊んでやろうと。

俺らは、その後何をしたかというと、早速そのネパールの友人に連絡を取るためネットカフェへ走った!なんてことはまったくなく、部屋でのんびり、まずバンド名を考えた(笑)

そして「THE JETLAG BAND!!!」という名前に決めた。

JETLAGというのは「時差ぼけ」って意味。なんとなく旅人っぽいからこれにしよう。と、大して深い意味は考えずにバンド名が決まった。

そして、俺がヴァンビエンを出る日がやってきた。
バスを待ちながら、二人で並んでタバコをすった。
S君はこのあとミャンマーやバングラディッシュ、インドなどを回る予定だと言っていた。
俺は北上してチベット越えた後ネパールに下りるよ!と言った。
じゃあネパールで再会しよう!と、俺らは固い握手をして別れた。

この時の別れをテーマに「青いバス」という曲を作った。

メンバーはまだ二人しかいないけど、バンド名が決まった。それだけでなにかワクワクした。
ヴァンビエンからルアンパバンに戻るまでの、バスの窓から見える景色が、来たときよりも違って見えた。

 

 


rainmanになるちょっと前の話。5


ふとした思い付きで、「ネパールでこの旅の間に作った曲たちを披露するライブをやってみたい」という目標が出来た俺は、ネパールに辿り着くまで、少しでもバンドのメンバーが増えればいいなと思い、バンコクで買ったギターのケース(麻の布を使用した手作り)に、マジックで「楽団員募集世界一蹴旅行」と書いた。
「世界一周」だと叶わないかもしれないけど、「世界一蹴」なら嘘じゃないな、と思った。

ヴァンビエンからルアンパバンに戻り、そのまま中国国境を目指すために乗り合いバスでラオスを北上していた俺は、途中で通りかかる「ウドムサイ」という町で休憩を取ることにした。
なにもない普通の田舎町だったが、なにもないのがラオスのいいところ。
この町で一晩宿を取り、移動はまた明日にしようと思った。

俺は有名な観光名所がある町で動き回るより、名もない町で、現地の人がいつもと同じように暮らしているのを眺めながらゆっくり過ごすのが、なんとも言えなく好きだった。その点ラオスはいい。どこに行っても、これと言って何もない(笑)
東南アジアで一番好きな国は?と聞かれたら迷わず「ラオス」と答えるだろう。

ウドムサイに到着し、バス停近くの適当なゲストハウスにチェックインした後、腹が減っていたので外に飯を食いに行くことにした。
良さそうな食堂がないかと町をウロウロしていると、木でできた小さな橋に差し掛かった。
その橋を渡っていると、突然後ろから、「あの!ダイスケさんですよね?」と声をかけられた。
いきなり自分の名前を言われたので、ビクっとした。
「ラオスのウドムサイ」こんな超マイナーな場所で俺の知り合いなんているはずないだろ?!そう思いながら、ゆっくり振り返ると、一人の日本人の若者が大きなバックパックを背負って立っていた。勿論、見覚えのある顔じゃない。

彼は再び「ダイスケさん…ですよね?違います?」と言った。
俺「あ、はい…。そうですけど。。あなた…どちらさん?」(やべー、どこかで会った人だっけ…)
彼「あー!やっぱりそうだ!Nさんって知ってますよね?」
俺「え?!Nさん!?おー、よく知ってるよ!あ、君はNさんの友達!?」
彼「はい。以前、バンコクの屋台で日本人何人かと飯を食っていたら、その中の一人がとつぜん歌を歌いだして…。俺が『いい歌ですね、誰の歌ですか?』って聞いたら、その人が『ダイスケさんという人の歌です。君も東南アジアを旅していたらいつか会えるかもしれない…。ギター持って旅をしているから、もしどこかで見かけるようなことがあったら声をかけなさい。きっといい出会いになるから』って言ってくれたんです。それがNさんで…。」

それを聞いて俺は吹きだしてしまった。Nさんが俺の歌を、バンコクの屋台で、みんなの前で歌っているのを想像したからだ。
あの人、ベトナムで曲をプレゼントしたときに「この曲を歌って旅を続けます」って言ってたけど、ほんとに歌ってたんだ!(笑)

そう思ったら、この、声をかけてくれた若者に急に親近感が沸いてきて、「おーー!そうなんだ!!Nさんの友達なら俺の友達だ。よし!一緒に飯を食いに行こう!」と誘っていた。

どうやら話を聞くと、俺とその若者は同じ乗り合いバスで、ここウドムサイに着いたらしい。
移動中、俺がギターを持っているのに気付き、「この人はNさんの言っていた人かもしれない」と、ウドムサイに着いたら声をかけようとしていたのだが、到着時まごまごしているうちに俺を見失ってしまい、途方にくれていたところ、俺が目の前を通りかかった。という話だった。
どおりでまだバックパックを背負ったままなわけだ。
俺は、「じゃあ同じゲストハウスに泊まるか?」と誘って、彼を引き連れて宿に戻った。

いやしかし、Nさんが俺の歌を歌っているところに居合わせて、俺の名前を知り、そのあと本当に俺と出会ってしまうっていうのはすごい確率だ。これだから旅は面白い。

俺は、彼のことを「Cくん」と呼ぶことにした。この時まだ20歳。
今回の話はすべてイニシャルで書いているので説明が難しいのだけど、カンボジアのプノンペンで会ったT(19歳)と、C君は同じ名前だったため、俺が「区別するのに紛らわしい」という理由で、二人の名前を半分にわけて、後ろ半分を取って「C君」にしてみた。
俺の都合で、勝手にあだ名を付けられてしまったC君なのだが、割りとその通称を気に入ってくれた様子で、その後自己紹介するときなど、自ら「どうも、Cです」って言ってたな。

気付く人は気付いたと思うが、彼は後にブルースハープ奏者としてrainmanの正式メンバーになる「C→君」です。(※アルバム一枚目と二枚目は彼の演奏)
しかしまだこの時は、ブルースハープなんて触ったこともないのであった。

偶然なのか必然なのか、不思議な巡り会わせで、ウドムサイの橋の上で出会った俺とC君。
俺らが仲良くなるのにそう時間はかからなかった。
Nさんのことを話題にしながら、その日は酒をいっぱい飲んだ。

次の日、俺は「これからチベットに向かう。その後、ネパールに抜けて、ネパールでライブをするんだ。C君も一緒にライブしてみない?」と、早速メンバー募集活動を行っていた。
C君は「いやー、楽器はできないっすけど、でも、面白そうなんで同行しますよ」と言ってくれた。
「そうかい。まぁいいや!せっかくの出会いだし、一緒に中国抜けてチベット目指そうよ。」
そんなわけで俺とC君との二人旅が始まったのである。

この後、二人で中国雲南省に入り、さらに俺の旅は大きなウネリに飲み込まれていく。

 


rainmanになるちょっと前の話。6


ラオス国境の町ボーテンに着き、イミグレーションを超え、無事に中国国境の町モーハンに入った。
色んな国境を渡ってきたけど、この国境はその中でも一番と言っていいほどノンビリしていて、静かな田舎町だった。荷物チェックも無く手続きも2分ほどであっさり済んだ。

俺にとって、この旅2度目の中国だ。

船で青島(チンタオ)に入った頃のことが、えらく昔に感じていた。あの時は孤独と戦いながらゆっくり中国を南下していた。そして逃げるようにベトナムに入ったのだ。でも俺は、その後ギターを手に入れ、たくさんの出会いと別れを繰り返した。
あの頃よりもきっと、少しだけタフになってるはずだ。
「今回は負けねーぞ、中国」と心でつぶやきながら国境を越えた。

C君という同行者がいるだけで、移動が断然身軽になった。
一人旅の移動で一番面倒なのは荷物の管理だ。
一人だと、トイレに行くにも全部の荷物を持って移動しなければいけない。そしてトイレから戻ってくると誰かに今まで座っていた座席を奪われたりしてしまうのである。
二人なら「ちょっと見ててくれ」と荷物を置いていけるのだ。こういう小さなことが、とても嬉しい。

大都会、雲南省の省都・昆明を経由して、俺らは大理石で有名な町「大理」に辿り着いた。

少し前にNさんからメールがあり、雲南省を旅しているという情報が入っていた。きっと大理にも寄っているだろう。もしかしたら会えるかもしれない。

バスを降りて、C君と二人で町を歩いていると、茶屋の前で一人の日本人男性が休んでいた。
その人は天然のドレッドヘアで少しイカツイお兄さんという感じだった。そういう感じの人、俺は大好きなのである(笑)
俺はその人に話しかけた。「すみません、Nさんって方知ってますか?胴衣みたいなの着ていて髭の長い仙人みたいな人なんですけど…」
その説明がわかりやすかったのか、そのお兄さんは「あ、その人なら知ってるよ。たしかもう麗江のほうに移動したと思う」と教えてくれた。
「あ、そうなんですか!」
どうやら少しタイミングが合わなかったようだ。

お兄さんは「俺、道で他人にものを尋ねられたの初めてだよー」と笑った。その笑顔がなんとも言えなく良くて、俺はそのお兄さんと友達になろうと決めた。
しばらく話を聞くと、その兄さんはチベットのラサから真東に移動して雲南省に抜ける闇ルートをヒッチハイクで抜けてきたという。
旅人の間では最も過酷なルートだと言われているそのコースを、コンプリートしてきた猛者だったのだ。
俺はここぞとばかりに、そのお兄さんからチベットの情報を沢山入手した。
チベットは5人集めて一緒に移動するのがいいらしい。ランドクルーザーを借りての移動が多くなるらしく、運転手以外は最大5人まで乗れるため、割り勘にするとその人数が一番安くなるのだ。
俺は正規のバスルートでもある「ゴルムド→ラサ」で行こうと思ってる、と言ったら「そうだね。ヒッチハイクは大変だしリスクも多いから、バスのほうがいいよ」とアドバイスしてくれた。

俺とC君は、少し大理に滞在してみることにした。
旅行者も多いし、ちょうどいい田舎ぐあいで生活しやすそうだったからだ。
旅人の間では、大理の話はちょくちょく出ていた。中国の中では比較的外国人旅行者の多い町で、ヒッピーさんたちにも人気だった。
その昔「ダーリーズ」というヒッピーの集団もあったらしく、以前の旅では「元そのメンバー」とか言う人と会ったこともあった。

大理に着いたその日の晩、茶屋で会ったお兄さんに誘われて俺らは「BIRD BAR」という店に遊びに行った。
奥まった場所にポツンとそのバーはあった。店内は薄暗くて、とてつもなくレトロだった。地元の悪そうな中国人の若者がビリヤードしたりして遊んでいた。

「よく来るんですか?ここ」
「まぁ、夜は大体来るね。静かだから」兄さんは答えた。

俺らはそこでゆっくりと自己紹介を交え話をした。

兄さんはロンドンにしばらく住んでいたらしく英語も達者だった。それに旅で必要な知識を、良いことも悪いことも(笑)いろいろと知っていた。気がつけば俺はそのお兄さんに「BOSS」というあだ名をつけていた。
俺はBOSSにも、ネパールでライブをやりたいと思ってるって話をした。
BOSSは、「俺はこれからラオスに降りるけど、その後は決めてない。またなにかあればメールしてよ」と言った。

それから大理に滞在中は毎晩BOSSとBIRD BARで話をして過ごした。

数日後、そろそろ先に進まないと…と思い、俺らは麗江行きのバスのチケットを取った。Nさんがまだ麗江に滞在してるかもしれない。
BOSSに「今日、麗江に向かいますよ」と伝えたら、「渡したいお土産があるから、バスが出る前に俺の部屋によってよ」と言われた。
約束通り、俺は夕方出発するバスの時間の少し前にBOSS部屋に寄ったんだけど、タイミングが悪かったのかBOSSの姿は見えなかった。
別れの挨拶が出来ずに残念だったけど、しょうがないのでそのままバス停に向かった。またきっとBOSSとは会える気がした。

麗江までの移動中、山に沈む夕日をバスの窓から見ながら「BACK PACK BLUES」という曲を作った。

俺とC君は、BOSSからのアドバイス通り、5人のメンバーをそろえてからチベットに乗り込もうと話していた。
次の町、麗江でもしNさんに会えたら、チベット移動メンバーに入ってもらおう。2人とも共通の友達なので話は早いはずだ。
あと2人はどうしようか。面白いやつがいるといいね。そんな会話をしながら麗江を目指した。

2度目の中国。まずまずのスタートだ。

しかし、俺らはこの後、中国旅行の本当の厳しさを痛いほど知る羽目になる。

 

 


rainmanになるちょっと前の話。7


雲南省の麗江(リージャン)は美しい街だった。旧市街は世界遺産にも登録されているだけあって、歩くだけで心が癒された。
水と緑の多い街で、水路には趣のある石の橋がいくつもかかり、石畳の敷かれた小道の両脇には土産物屋や料理店が並んだ。俺は一発でこの街を気に入ってしまった。

C君が「○○って宿が、評判いいみたいっすよ」と言うので、「じゃあそこに行ってみよう」ということになった。
旅をしていると色んな旅人が色んな情報をくれるので、ガイドブックを見るよりはるかに確実な宿情報が手に入る。

無事にその宿を見つけ、宿の門をくぐると、日当たりのいい中庭があった。
そこに猫と遊んでいる一人の男性がいた。

Nさんだった(笑)。

再会の握手。

Nさんは、俺の隣にいたC君を見て「お!大輔さんと会えたんですね。」と言った。
C君は「へへ。会っちゃいました。」と笑った。
「Nさんが俺のプレゼントした唄を本当に歌ってくれてるおかげで、いい出会いになりましたよ。ありがとう。」と俺も笑った。

さっそくNさんに、チベットを5人組で抜けたいと提案したら、「そういうことなら同行致しましょう。」と言ってくれた。
一人旅の人たちはみんなほんとに話が早い。

これで5人のうち3人は揃った。

俺は、あと2人のうち1人は、カンボジアで会った19歳の若者「T」を誘おうと思っていた。
たしか彼もチベットに行くと言っていたから、そろそろ中国に入っているかもしれない。
俺はネットカフェに行きTにメールしてみた。Tからの返事は「もう少し麗江に着くまで時間がかかりそうですが、待っていてもらえるなら一緒に行きましょう」という答えだった。
宿に戻り、そのことをNさんとC君に相談したら「この街が気に入っているし、もうすこし滞在するつもりなので構いませんよ。その彼を待ちましょう」と言ってくれた。

残りの1人は、そのうち決まるだろう。この宿には他に日本人旅行者も多いし、ここに滞在しながらゆっくり探そう。そう思った。

この宿に滞在している旅行者は、20代から30代の若者で、一人旅だったり、女の子二人旅だったり、大学生だったり会社員だったり…様々だったが、みんな気さくでいい奴らだった。というか、旅してるやつで嫌な奴はほとんどいない。日常を離れて好きな場所に自分の足で立ってる奴にストレスなんてあるはずないのだ。
新参者の俺らともすぐに打ち解けてくれ、一緒にマージャンしにいったり(中国の牌で一度してみたかったのだ)、大人数で中華を喰いにいったりした(中華料理は大皿で出てくるので、一人で食べに行ってた時は一種類食べるのがやっとだったけど、皆でいけば色々な種類が頼めるのだ!)。

俺はC君と1つの部屋をシェアしてたんだけど、ある日部屋で酒を飲んでいるときに、俺は日本から持ってきたブルースハープ(ハーモニカ)を彼に見せた。
実は東京のある友人から「お守り代わりに…」と、旅立つ前に預かったブルースハープが、バックパックの底に眠っていたのだ。
そのブルースハープがここに来て陽の目を浴びるとは!!という思いだった。

俺は「これは10個の穴しか空いてない小さな楽器なんだけど、この10個の穴から無限に広がるメロディーが産まれるんだぜ。」と少し吹いて見せた。
俺は、そこまでブルースハープが上手く吹けるというわけじゃないけど、高校生の頃からたまに吹いていたのだ。

そして今度はC君に持ってもらい、「俺がギターを弾くから適当に吹いたり吸ったりしてごらん。どこを吹いてもキーが同じならそれなりに音楽になるんだよ」と言って、ギターを弾いた。
C君は最初戸惑っていたけど、一緒に音を出しているうちに少しずつブルースハープの面白さに気付いていったようだった。

何日か経った日の午後。
いつものように中庭でギターを弾いて歌っていると、サングラスにバンダナ、そして革ジャンに革靴、という珍しいいでたちの日本人男性がチェックインしてきた。
なかなか見ないタイプの旅行者だなぁと思いながら、俺は彼を横目で見ていた。

彼は部屋に荷物を置いた後、中庭に出てきた。
そして少し離れた椅子に座りながら、なぜかずっと黙って俺を見ている。
サングラスなので表情がわからなかったけど、睨まれてるような気もした。
「どこかで会ったっけなぁ。見覚えが無いなぁ。なんか俺…気に触るようなことしたかなぁ」と思っていると、突然その彼は立ち上がって俺の前まで歩いてきた。

俺「な、なんでしょうか…」
彼「ダイスケって君やろ?」
俺「え!?? あ、そうですが、なぜ俺の名を…」
彼「◎◎さん知ってるやろ?あの人から頼まれたんだ。これを君に渡してほしいって」といって包み袋を俺に差し出した。

◎◎っていうのはBOSSの苗字だった!
そうか、この人は大理でBOSSに会って、あの時俺が受け取り損ねた土産をわざわざ届けてくれたのだ。

俺「どうもありがとう!まさかその為にここへ?」
彼「うん。麗江中のホテル探し回ったんだよ。さっきここの宿泊客名簿に君の名前を見つけたからチェックインしたんだ。ギターを持ってるって◎◎さんが言ってたから、もしかしたら君の事かなぁと思って見てたんだ」
なるほど、どおりでじっと見られてたわけだ。
しかし、渡し損ねた土産を人に託すBOSSも律儀だが、それを町中探し回って届けてくれるこの人も律儀だなぁ。

彼の名は「K君」と言った。俺と同じ歳だった。
フィリピンのマニラにまず降り立ち、それからマレー半島北上して中国雲南省に入ったらしい。服装と同じく珍しい旅の経路である(笑)。

彼は絵と山が好きらしく、この後は絵でも描きながらヒマラヤを本格的にトレッキングするつもりだと言う。
サングラスを外すと意外とかわいい目をしていた(笑)。強面の外見とは裏腹に、話すと真面目で優しい関西人だった。
BOSSの繋いでくれた縁ということもあり、俺らはすぐに仲良くなった。
俺はK君に、チベット入りの5人メンバーをあと一人探してるんだけど…と誘った。
K君は「俺もちょうど探してたとこやねん」と言った。

よし!
5人目決定である。

そうこうしているうちに、やっと「T」が麗江入りして、この宿にやってきた!
「いやー、急がせて悪かったなT。おつかれさん!じゃあ早速、旅のメンバーを紹介します」と言って、俺はNさん・C君・K君を紹介した。

今思えば、19歳の彼にとって、新しい街に着いた途端、いきなりこんな変な日本人を何人も紹介されて「このメンバーで旅するから!」と言われ、テンション合わせるの大変だったろうな…と思う(笑)。

Tが到着して二日後、早速俺ら5人はチベット・ラサに向かうため麗江を出た。宿の仲間がバス停まで見送りに来てくれたりした。優しいなぁ。

まずはチベット自治区の入り口の町ゴルムドまでの長い旅が始まる。

この5人での移動が、THE JETLAG BAND!!!にとって大きな起点となっていくのだった。

 

rainmanになるちょっと前の話。8


麗江にて即席で結成された俺ら「チベット越え5人衆」は、列車でまず、四川省の省都、大都市「成都」を目指した。
麗江から成都まで線路の長さで約1200キロ。軽く本州の長さくらいある。
勿論新幹線なんてないので、各都市に停まりながらゆっくり進むのだ。

それこそ、時間だけはいっぱいあった。
最初はみんな各自読書や絵などを描いて過ごしていたが、それもやはり段々飽きてくる。
俺は、C君とTを誘い、客席を離れて、列車の連結部分の近くに来た。
ここなら多少大きな音を出しても迷惑はかからなそうだ。

俺はポケットから例のブルースハープを出して、麗江に居るときに作ったばかりの「BACK PACK BLUES」という曲のイントロのメロディを吹いた。
「これからの旅は長い。暇だし、よかったらこのメロディ吹けるように覚えてよ。」
多少強引なバンドメンバー勧誘だったが、C君もTも本当に暇をもてあましていたので、「どの穴吹くんですか?」と、けっこう食いついてきた(笑)。

一通り吹く場所吸う場所を教えて、「じゃあ出来るようになったら呼んで。俺、席にいるから」と言って、二人を置いて席に戻った。

歳も近いし、名前も同じだし、C君とTはお互いを良い様に意識しあっていて、俺にはとてもいいコンビに見えた。

しばらくしてC君がやってきて「一回聞いてもらえますか?」と言う。
俺は「練習場」まで向かい、演奏を聞いた。

びっくりするくらい上手かった!

「おいおい、すげーなー。よく短時間でこんな吹けるようになるねー」

いやーなかなか難しいっすよ!とC君が笑っていると、今度はTが「ちょっと俺にもやらせて!」と言ってブルースハープを持って練習場に引きこもった。

そのうちTもマスターしたらしく俺を呼びに来た。
演奏を聴いてみると、荒々しいけどしっかりした音で吹けていた。
C君はどちらかというと優しくて繊細な音色。Tは力強くて思い切りのある音。
俺は「二人ともいいねー!ツインブルースハープで一緒にバンドやろうよ!二人が一緒に音出したら結構面白い音になると思う!」と言った。
二人は「いやー、バンドとかライブとかは無理っすよー」と言いながらも、「他にもなんか曲あるんですか?」と俺に聞いてきた。
ちょっぴり音を出す楽しさを気付きはじめてるようだ。

俺は「PARTY」や「あの店今頃」、「夢を見るには」等のこの旅で作った曲を、課題曲のように二人に渡し、そして二人はそれを次々とマスターしていった。

その間も勿論、列車は延々と、ガタンゴトンと走り続けている。

一眠りして起きた頃、Tが悲しそうな顔でブルースハープを持って俺のところに来た。「どうしたの?」と聞いたら、どうやら強く吹きすぎて音の出なくなってしまった穴があるらしい。「借りたハープ壊しちゃってすんません」と言うので、「気にしないでいいよ。ブルースハープっていうのは消耗品だから。最初はみんな壊すんだよ。このハープも壊れるまで吹いてもらって本望だと思うよ」と言った。

ハープが壊れてしまったので練習は終了。
まぁしょうがないかと思っていたら、再びC君とTがやってきて、「次の街『成都』に着いたら、新しいブルースハープ買うことにしました!」と言う。
俺は嬉しくなって、「いいねー。いまんとこ中国で楽器屋見たことないけど成都なら都会だし、きっと売ってるよ!」と言った。

列車に乗ってから約20時間後、列車がやっと「成都」に到着。長い移動だった。長すぎる。。。広すぎるぜ中国。。

5人いるとさすがに宿探しも楽だった。
荷物を置いて3人が各方向に宿を探しに行き、残りの2人が荷物番。
この方法で一番いい条件の宿を、身軽に短時間で見つけられた。

成都は都会だった。ビルも高いし、デパートもでかくてキラキラしてた。デパートの受付嬢のお姉さんに笑いかけられただけでやたらテンションがあがって一緒に写真撮ったりした。

C君とTは早速デパートを走り回り楽器屋を探していた。
そしてやはりすぐに楽器屋は見つかった。
しかもブルースハープもちゃんと置いてあった。俺は「楽器屋はあるとしても、ブルースハープまで置いてるかなぁ…」と少し心配していたのだ。
ブルースハープにはキー(音階)があり、曲によって持ち替えて演奏するため、やる曲によってはいくつかハープを用意しなければいけない。
俺は主に使うキーを二人に伝え、二人は相談しながら買っていた。
このときの25歳の俺にとって、19歳20歳のTとC君が、弟のように思えてかわいくてしかたなかった。

成都では、みんなで市場に行って、冬着も買った。
東南アジアを旅していると蒸し暑い国ばかりなので、みんな防寒対策用の服を持っていなかった。

これからは中国を北上していく。どんどん寒くなるのだ。
荷物がかさばってしまうけど、セーターの一つも無ければとても寒さに耐えられない。
バカでかいマーケットで、俺らは財布と相談しながら靴下や暖かい衣類を手に入れた。

そして次の日、今度は西安という町までのチケットを買い、再び列車に乗った。
成都から西安まで1200キロ。。。
またしても長い長い移動が始まった。

C君とTも、再び、買ったばかりの新しいブルースハープで課題曲に取り組んでる様子だった。

俺は、この移動で、今度はNさんに声をかけた。
「Nさん、俺の唄を旅先々で歌っているということですが、一度俺のギターに合わせて唄ってくれませんか?」

俺はギターを取り出し、Nさんに唄ってもらった。

下手だった…。

 


rainmanになるちょっと前の話。9


西安までの、また気の遠くなるような長い移動が始まった。

C君とTは、相変わらずブルースハープに夢中。今度はそれぞれが持っているので、二人で一緒に吹きながら音の重なりを遊んでいた。
K君はマイペースに絵を描いたり地図を見たりしている。

俺はNさんと一緒に唄を歌う時間を過ごした。

決して上手くはないんだけど、Nさんの歌には心があった。
屋台などで突然アカペラで歌いだす度胸と、なぜか耳を傾けたくなる声。仙人みたいな風貌。。俺はそれらに魅かれた。
「手紙の唄」などを一番と二番で俺と歌い分けたり、サビは一緒に歌い、俺がハモったりすると、けっこういい感じになった。
Nさんはどうやら歌うのが好きだった。いい顔をして歌うのだ。
俺がハモルとすぐにそっちにつられてしまうけど、そこを二人で笑いながら修復していくのが楽しかった。
「Nさん、チベットに着いたら、なにかリズムとれるような太鼓買いませんか?それを叩きながら、俺とツインボーカルしましょう」と言うと、
「いやー、難しいけど楽しいわー、歌うの」と笑った。

列車が移動するにつれ、俺が作ったほとんどの曲を一緒に唄えるようになっていた。
何度も言うが、とにかく時間だけはたっぷりあるのだ。

俺とNさんは、C君とTコンビのところにいって、今度は一曲通して、ブルースハープを吹く箇所、Nさんと俺が唄う部分の確認、サビと間奏の長さ、などを合わせて演奏してみた。
かっこつけて言うと、いわゆる曲のアレンジである。
全員素人なので、ぜんぜんへたくそだったが、とにかく自分たちで音を出して唄うのが楽しくてしょうがなかった。

そして列車は約丸一日かけて西安に到着した。
移動中の楽しみを見つけたので暇は感じずにすんでいたけど、やはり長時間の移動で体はクタクタだった。宿で泥のように眠る。

西安でも一泊だけして、また列車に飛び乗り、今度は蘭州という都市を目指す。
そして蘭州でも一泊して、またすぐに列車で移動した。

どこまでいってもどこまでいっても、中国が続いた。

この頃になると俺は少しずつ、中国の裏の顔が目につき始めていた。

デパートなどはキラキラして輝かしいし、文化遺産なんかはほんとに歴史を感じて素晴らしいんだけど、一歩路地裏に入ればゴミだらけになる。

中国にはゴミをゴミ箱に捨てるっていう文化がないのだろうかと考えてしまうほど、列車でもバスでも、乗客はゴミになった紙くずをすぐ通路に捨てる。
降りる頃には通路はゴミでいっぱいになっているのだ。それに唾などもすぐに「ぺっ」とそこらじゅうに吐き捨てる。
一言でいうと中国は「汚い」のである。

あと、サービスという概念があまりないようで、宿のスタッフや駅の切符売りは極力働くことを避ける。列車の予約のため窓口に延々と並んで、次で俺の番という時でも、12時にお昼休憩だとすればきっちり窓口を閉めてしまうのだ。俺の後ろには誰もならんでないのに。。。

あとこれは文化の違いでしょうがないのかもしれないけど、公共のトイレだと、個室がない場合が多い。一応性別は別れているけど、「大」をするときも丸見えなのだ。一本の水路があって、そこをみんな同じ方向にまたぎ、しゃがんで用を足す。
最初はかなり戸惑ったが、慣れとは凄いもので、自分のウ○コを見られることに抵抗はなくなっていた。しかし他人のを見てしまうのだけはいつまでも慣れなかった。。。そのための攻略方法を見つけた。同じ方向にしゃがむ水路の一番先頭で用を足すことである。前は壁しか見えないからだ。

そんな中国を進み、俺ら五人はついに、チベット自治区入り口の町、ゴルムドまでたどり着いた。

今はゴルムドからラサまで鉄道が走っているけど、2000年のこの頃は、まだその鉄道を造っている時で、旅行者の移動手段はバスのみだった。
ここからバスで約30時間ゆられ、標高5000メートルを超えるときもあるといわれるヒマラヤの山道を超えれば、ついに憧れの地「ラサ」がある。

神の住むという山に囲まれた街。どんな場所なんだろう。俺の心は高鳴っていた。

 

 


rainmanになるちょっと前の話。10


チベット自治区入り口の町ゴルムドに着いた、我々「チベット越え5人衆」。
長い長い中国大陸の移動ですでに疲労困憊だった。
俺らは、政府で定められている外国人宿泊OKのホテルにチェックインした。

K君の提案で、この町でしばらく高度順化しようということになる。
ここからラサまでの道は険しく標高も相当あがる。最大で5200Mに登るらしい。そして辿り着くラサの街は3700M。富士山の頂上と同じくらいだ。
急にそういう環境に自分をおくと高山病になりやすいという。だから、やや標高の高いこのゴルムドで体を慣らすために3日くらい滞在しようというのだ。
K君はガイドを勤めるくらいの「山」のプロフェッショナルである。みんなK君のいうことを黙って聞いた。

ゴルムドからラサまでのバスの料金には、現地人価格と外国人価格がある。当時は、外国人価格が現地の人の価格より10倍近く高かった。

貧乏旅行者がこれに黙って納得するはずがない。

そこで中国人に変装して、現地の価格で行ってしまおう、という悪知恵が働く。
そうなってくると、何でも商売にする中国人が、「変装屋」という商売を始めるようになるのだ。

変装屋っていうのは、中国人の服や靴を用意すると共に、チケットの手配や移動の際の手助けなんかも受け持つ「闇バス移動の何でも屋」なのだ。
変装屋の噂は、東南アジアを旅しているときからよく聞いた。
町を歩いていると、突然変装屋さんから声をかけられて商談が始まるというのだ。

俺ら5人がその話に食いつかないはずがない。

高度順化でしばらく滞在するし、その間に手分けをして町を練り歩き、装屋と接触をもとう!という話になった。

その時、Tが、すごい発言をした。

「俺、変装屋の携帯番号しってますよ!確か、ワンさんって人です」

みんなびっくり!
なんで知ってんだよ、そんなこと!

「チベット帰りの旅人から聞いたんですよ。ほらこれ。」
と、見せたものが、携帯番号らしい数字が書かれた紙切れだった。
みんな大興奮!
すげーぞ19歳!

次の日早速電話をかけてみた。

そこで大変なことに気付く。

相手の言葉が中国語なのだ!

お手上げである。ワンさんかどうかもわからなかった。

しかし、それで諦めてしまうほど俺らはお行儀よくなかった。こうなったら当初の予定通り、町練り歩き作戦だ!となった。

俺は駅に行ってみる、俺は市場に…と、バランスよく別れ、定期的にホテルに戻ってきて報告をする。そんなことを日が暮れるまで繰り返した。

次の日も次の日もひたすら町を歩いた。しかし一向に変装屋らしき人物からの接触はなかった。

俺は早くラサに行きたかった。

ついに我慢出来ずにみんなに提案した。
「明日一日歩いて変装屋と会えなかったら、次の日正規の外国人料金でバスのチケット予約しない?」

みんなもほとほと疲れていたようで、そうしようか、と言うことになった。

次の日、1日中歩き回ってみたが、やはり変装屋との接触はなかった。

よし!諦めよう!ということになり、「今日はゴルムド最後の夜だ。みんなで変わったところに飯を食いにいこう!出発を祝して乾杯だ」そう言って5人で外に出た。

Nさんが「ここにしましょう」と言って入ったのは「イスラム料理屋」だった。
たしかに中国でイスラム料理は変わっている。中国でイスラム教徒の割合なんてごくわずかなのだ。
Nさんはイスラムにはまっているのか、その時、よくイスラムの人がかぶっている白い卵の殻を半分に切ったような帽子をかぶっていた。
どこでそんなの買ったのよ…。
Nさんのセンスはかなり変わっているのだ。

料理は美味しく、酒も進んだ。
早くラサに行きたいなぁと話す俺らの顔は、もう次の町に辿り着くときの顔だった。

と、その時、一人の男性が声をかけてきた。

何を言ってるのかイマイチわからなかったが、少しだけ英語もできるようだ。

男の口から「ラサ」という言葉が聞こえた。

俺らはドキッとして顔を見合わせた。

まさかこの人変装屋?!

Nさんが彼に名前を尋ねた。


彼は言った。「アイム ワン」


続く。

 

 

 

 


rainmanになるちょっと前の話。11


「アイム ワン」と、確かにこの男は言った。

Nさんが「T、携帯番号書いてある紙持ってる?」と言った。
Tがすかさず「持ってます!」とその紙を出した。

ワンという苗字は中国にはたくさんいるし、変装屋のワンさんとは別人かもしれない。
しかし、もし彼の携帯番号がこの紙に書かれている番号と同じなら、俺らが捜し求めていたワンさんだ!

Nさんと俺で、ジェスチャーを交えながら説明して、なんとか彼の携帯番号を見せてもらった。
そしてTの持ってる紙の番号と照らし合わせてみた。

一致した!

この人、変装屋のワンさんだ!

俺らは、闇バス移動を諦めた直後に、捜し歩いていた人物、ワンさんと遭遇してしまったのだ!

さっそく「ラサに行きたいんだけど、いくらでやってくれる?」と俺が聞くと、それまで温厚に見えたワンさんの顔つきが一瞬で変わった。
そして真剣な顔をして「今、ここでその話をするのは危険だ」というような素振りを見せた。
「急いでラサに行きたいから何とかして欲しい」と小声で頼むと、「それでは今夜の11時に市場まで来い。5人で来ると目立つから2人だけで来るように。」と簡単な英語で指示してきた。
そしてそれだけ言うとワンさんは店を出て、どこかへ行ってしまった。

その時はまだ7時半ごろだったので、1度ホテルに戻ることにした。
そして一つの部屋に集まり、作戦を練った。

俺らは興奮していた。数日間探し回った男についに会えたのだ。
でも、その興奮もすぐに収まり、ほんとうに11時に市場まで行けばワンさんがいるのか?という話題になった。
しかし疑ってもしょうがない、俺らはそこに行くしか選択肢はなかった。

相談の結果、俺とNさんの2人が、待ち合わせ場所の市場に行くことになった。
そして残りの3人は、少し遠い場所で、見張りをしてもらう事にした。
ワンさんが来るという確実な保証はどこにもないし、もしかしたら危険な目にあうかも知れない。
旅では何がおこるかわからない…ということを俺らはこれまでの経験でわかっていた。

待ち合わせ時刻が近づいてきたので俺らは外に出た。まず俺とNさんが歩き、その少し時間をおいて残りの3人が俺らの後を追った。
市場はゴルムドの中心街より少し離れた所にあった。
昼間は結構な人で賑わっているのだけど、夜は怖いくらいシーン…と静まり返っていた。
しかも外灯のようなものがまったくないため、真っ暗だった。
目が慣れてくるとやっとぼんやり周りが見える感じ。

俺とNさんは息を殺して、市場の真ん中まで歩いた。そしてライターで明かりを作り、じっとワンさんを待った。

指定時間の11時を10分ほど回って、すこし不安になってきた頃、遠くで人影が見えた。
暗くて誰かわからなかったので、俺らはその人影に近づいた。
そこにいたのは、やはり先ほどの男、ワンさんだった。なぜか自転車にまたがってこっちを見ていた。

俺らの顔を確認したワンさんは、首を横にふって「ついて来い」というような素振りをして自転車で進みだした。
俺らは黙ってついていった。
市場を出るとき、K君がそっと近づいてきた。俺はワンさんに気付かれないように小声で「無事に会えた。とりあえず3人は先にホテルに戻ってて。大丈夫だから」と伝えた。K君は「了解」と言って消えていった。

市場を出て、入り組んだ細い道をワンさんはどんどん進んでいった。旅行者だけなら絶対に歩こうと思わない裏道だ。
俺らは帰り道を忘れないように注意しながら歩いた。

ワンさんはあるイスラム料理屋に入っていった。現地の人が利用するローカルな食堂だった。
ここで気付いたのだけど、どうやらワンさんは、中国では珍しいイスラム教徒なのかもしれない。
Nさんが、「イスラムの帽子」を被っていたため、ワンさんは俺らに声をかけてくれたのかも!と思った。
Nさんのヘンテコなセンスが役にたったのだ。

ワンさんの後ろに付いて俺らもその店に入ると、店内に客が何人かいて、いっせいに俺ら2人を見た。

ワンさんは「こっちだ」と言って、店の中にある階段を登っていった。俺らもその階段を登る。
なんだか変な緊張感があった。

2階には真っ赤なソファーと木で出来たテーブルが置いてあり、ワンさんの他にもう一人男がいた。
薄暗いその部屋で、俺らは2対2で向かい合うようにソファーに座った。

ワンさんは紙とペンを出してきた。そしておもむろに図と字を書き始めた。

それから1時間ほどかけて、俺らはワンさんの説明を聞くことになる。
少しの英単語と、中国語での筆談だったので理解するのに時間がかかってしまった。

まずワンさんが言うには、今の俺らが泊まっているホテルは警備が厳しいから、すぐに移れという事だった。
もう移るホテルは確保していると言われた。
そして日にちが少し先になるという事を言われた。
今回の作戦は公式バスに乗ってラサを目指すのだけど、中国人として乗るから値段は現地価格のままで行けるという方法だった。
ワンさんの部下5人が、バスの出発地点では俺らの席に乗っていて、最初のチェックポスト(公安が、不正な客がいないかバスの中を調べるポイント)を越えたところで、部下の5人が降りて、代わりに俺らがその席に乗り込む、という作戦らしい。
そのための準備で少し時間がかかるらしい。
その後、ワンさんに払う報酬なども聞いた。意外と安かったので驚いた。

俺は、「ひとまずホテルに戻って5人で相談し、改めてその作戦に参加するか返事をしに来ていいか?」とワンさんに聞いた。
「それは全然構わない。でもホテルはすぐに移ったほうがいい。」とワンさんは答えた。

俺とNさんは、ワンさん達と握手をして、その食堂を出た。

ずっと気を張っていたので、Nさんと二人になった途端、どっと疲れが出た。

Nさんが「なんだか映画みたいだね」と言って、俺らは笑った。

しかし俺はこのとき、いくつかこの作戦に対しての不安があった。

「確かに安くは行けるけど、けっこう大掛かりな作戦だし、ちょっとめんどくせー感じもするな…」
「早くラサに行きたいのに…準備にどれくらいかかるんだろう…」

そんなことを思った。

とにかくみんなで相談しよう。
俺とNさんは、足早に3人の待つホテルを目指した。

 

 

 


rainmanになるちょっと前の話。12


遂に、ゴルムド→ラサ間の闇バス社会を仕切る男、ワンさんに接触できた我々「チベット越え5人衆」。

Nさんと俺は、さっきワンさんから聞いた作戦を、ホテルの部屋で待っていた3人にすべて話した。

3人とも様々な反応をした。

そこで俺は、今の気持ちを率直にみんなに伝えてみた。
「正直、俺は一刻も早くラサに行きたい。なんかゴルムドの町は好きになれないんだよね。公安の見張りとか多いし…。確かにワンさんに頼めば安いけど、リスクもあるし、時間もかかりそうだ。俺は明日、正規の外国人値段でバスのチケット取って、先にラサに行こうと思う。」

俺の話を聞いてみんなは少しびっくりしたようだが、Nさんに「それもありだね」と言われた。
もともと俺らは一人旅の旅人の集まりだ。それぞれが自分で決めた道を進めばいい。誰もそれに口を出したりしない。

NさんとK君は、「せっかく運命的にワンさんに会ったので、この流れに乗ってみるよ」と言った。特にK君は頼もしいくらい張り切っていた。
C君は「俺は…なんだか気持ちがもうラサに行っちゃってるし、大輔さんと同じバスで明日ラサに向かいますよ」と言った。
Tは、しばらく「どうしようか…」と悩んでいたが、決心が付いたようで「俺は残ります。ワンさんの作戦でラサまで行く!」と言った。

こうして、ゴルムド→ラサ間は、俺とC君の「正規料金組」と、NさんとK君とTの「闇バス組」の2つに別れて移動することになった。

まぁ、料金が違うだけで通る道は一緒だし、到着する場所も一緒なので、ラサで待っていればすぐにまた5人揃うだろう。
「じゃあ先に行って待ってるよ!ゲストハウスが決まったらメールするからそこで落ち合おう!」
俺らは握手を交わして、それぞれの部屋に戻った。

次の日の朝、俺とC君は正規の値段を払い、無事に朝8時半に出発するバスのチケットを取った。
ワンさんの作戦に乗るほうが、面白い旅のエピソードが出来るかな?という思いもあったが、それ以上に俺は「ラサ」に向かいたかった。「ラサ」は、俺にとって今回の旅の「行きたい街ベスト1」だったのだ。ラサを目の前に、ゴルムドで後何日も過ごすなんて我慢できなかった。

バスには、中国人、チベット人、欧米人そして何人かの日本人が席いっぱいに詰め込まれた。
シートは狭く、背もたれもほんの少し動かせる程度だった。
これからラサまで約1200キロに及ぶヒマラヤ超えの移動が始まる。無事に辿り着くことを祈った。

最初のチェックポストに差し掛かった。
公安が何人かバスに乗り込んできて、リストを見ながら一人一人の顔を覗き込んでくる。
けっこうしっかりチェックされたので、俺は後からくる3人のことが少し心配になった。
こんな感じのチェックポストがラサに着くまで、数箇所あるのだ。ワンさんの部下が乗って通り過ぎるのはここ最初のチェックポストのみ。ばれたら強制的にゴルムドに返されてしまう。なんとかバレずに辿り着ければいいが。

しかし、次第に俺らは他人の心配などしていられないほど、自分の体調管理に頭がいっぱいになっていった。

バスはどんどん荒野を進み、いよいよヒマラヤ山脈の中に突入していった。
俺のG-SHOCK(腕時計)には標高計が付いていたのだが、その数字がどんどん上がって行く。
頭が少し重いなぁと思った頃、標高計を見たら「−−−MAX−−−」という表示が現れた。
このG-SHOCKは確か5000Mまでしか計れない。つまりバスは今標高5000M以上の場所を黒い煙を出して走っているというわけだ。

朝出発したのに、いつのまにか辺りは暗くなっていた。

そろそろ腹も減っている。
しかし、こんなところに飯を食える場所なんてあるのだろうか。

そう思っていると、明かりが灯っている建物が窓から見えた。バスはその建物の前に停まった。

運転手が叫ぶように「サーティンミニッツ!」と言った。30分。
つまり30分の休憩だ。

建物は、粗末な小屋だったが、中から湯気が出ていた。
俺はとにかく暖かいものがほしくて、その小屋に駆け込んだ。

そこは食堂だったが、メニューを見て驚いた。まともな飯はカップラーメンくらいしか置いてないのだ。
しかもすごい高い!

でも、文句を言っていられない。標高5000Mで飯にありつけるだけでも有難いと思った。
カップラーメンのお湯はぬるかった。酸素が薄いためお湯の沸点も低いのだ。

しかし、ぬるいお湯でも有難かった。
ほんと涙がでるくらい、体にスープが染み渡っていった。

その後もチェックポストを越えながら、バスは暗闇を走り続けた。

朝方、俺は体の異変に気付いていた。

なんだか熱があるようで体が重いし、頭が痛い。
となりのC君もかなりつらそうだった。

俺らはゴルムドで買っておいた携帯酸素ボンベを出して吸った。
少し楽になったような気もしたが、あまり長い効果は得られなかった。
もしかしたら、これが「高山病」というやつかもしれない、と思った。
高山病になるかどうかは、運だと言われていたが、どうやら俺らは運がなかったようだ。

やっと朝日が昇って明るくなった頃、俺らの体はすでに「虫の息」といった感じだった。
もうかれこれ24時間、この狭い空間で動けないままじっとバスに揺られているのだ。

しかし明るくなった後の、窓から見える景色は凄まじかった。
標高5000Mがどんな景色なのか、何度も思い描いてきたけど、そのどれもに当てはまることの無い景色だった。
無機質で草一本も生えてない、見たこともない荒野が広がっていた。
朦朧とした頭で、俺はその景色を目に焼き付けていた。

途中、エンジントラブルでバスを修理したり、チェックポストでしばらく待たされたり、なかなかスムーズにバスは進んでくれなかった。

すでに夕方に近くなっていた。

いったいいつになったらラサに辿り着くのだろうか。もう時計を見るのも嫌になっていた。

バスに乗って二度目の夕焼けが見え始めた頃、バスは山道を抜けたように思えた。酸素が濃くなってるのを感じるのだ。

そしてバスに乗って31時間後、静かにバスが動きを止めた。

乗客が声を上げて喜んでいる。

俺は運転手に「ラサ?」と聞いた。
運転手は「ラサだ」と言った。
俺も声にならない声をあげてしまった。
着いた。やっとラサに着いた。

俺とC君は、転がるようにバスの外に飛び出た。

そのままバックパックを枕に地面に寝転んだ。

C君「やっと着きましたね。長かったっす。」

俺「きつかった…。ここ…3700Mの標高なのに、めちゃくちゃ空気が濃く感じる…」

こうして俺は、憧れの地ラサに、やっとの思いで辿り着いた。

そしてこの後、ラサでまた、俺の旅が奇妙な運命に導かれて進んでいく。

 

続く